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中後悠平 : ミニ英和和英辞書
中後悠平[なかうしろ ゆうへい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [のち]
  1. (n,adj-no) afterwards 2. since then 3. in the future 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

中後悠平 : ウィキペディア日本語版
中後悠平[なかうしろ ゆうへい]

中後 悠平(なかうしろ ゆうへい、1989年9月17日 - )は、大阪府泉南郡熊取町出身のプロ野球選手投手)。
== 経歴 ==

=== プロ入り前 ===
小学5年時に父が監督を務めるリトルリーグに双子の兄とともに入団し、本格的に野球を始める。熊取北中学校時は貝塚シニアに所属し、3年時からサイドスローに挑戦。その理由は「何も特徴がないのでサイドに変えろといわれて」〔関西の逸材(上)中後悠平投手(近畿大) 産経新聞 2011年10月25日〕。
地元大阪を離れ、父の出身地である和歌山県新宮市近大新宮高校に兄とともに進学。スポーツ進学コースの第1期生であり創部されたばかりの野球部の1期生であったが、2年夏からベンチ入り。3年時は和歌山大会準々決勝で敗れた。
高校卒業後は近畿大学に進学し硬式野球部に入部すると、1年次の春から公式戦に出場。しかし初めの一年間は徹底的に下半身強化にあてた。
2年次の春には10試合中9試合に登板し3勝0敗、防御率1.47の好投で大会MVPを受賞。近畿大学の2季ぶりの優勝に大きく貢献した。2009年全日本大学野球選手権大会で全国大会デビューを果たし、対桐蔭横浜大学戦で1失点完投勝利を挙げた。夏に第25回アジア野球選手権大会日本代表、秋には第37回日米大学野球選手権大会日本代表に選出。3試合に登板し、4回を被安打4、奪三振6、与四球1という成績だった。また11月22日に東京ドームにて開催された日本初の「プロと大学の選抜チーム同士による交流戦」であるU-26 NPB選抜 対 大学日本代表の大学日本代表にも選出されたが、この日の登板は無かった。
3年春のリーグ戦では8試合に登板し4勝2敗、防御率1.11で大会2位でベストナイン選出、秋のリーグ戦では7試合に登板し2勝3敗、防御率0.98で大会1位の成績を残した。また同年に開催された第5回世界大学野球選手権大会日本代表に選出。3試合に登板し、打者11人に対して被安打1、4奪三振。
4年春のリーグ戦では8試合に登板し5勝3敗。防御率0.74は大会1位でベストナインに選出。続く秋のリーグ戦では10試合に登板し3勝4敗。防御率2.15とふるわないものの、奪三振数は72を記録。9月29日に連盟を通じてプロ志望届を提出した。
関西学生リーグでは50試合に登板し、通算成績19勝13敗、260奪三振、防御率1.48。日本学生野球協会・第44回「大学の部」にて表彰選手に選ばれた〔表彰選手 日本学生野球協会〕。
2011年のドラフト会議千葉ロッテマリーンズから2位指名を受け、11月21日に仮契約を結んだ〔「中後、変幻フォーム貫く!成瀬&藤岡と左腕王国つくる 」 スポニチ Sponichi Annex (2011年11月22日)、2011年12月3日閲覧。〕。背番号は「16」。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中後悠平」の詳細全文を読む




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