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中後 悠平(なかうしろ ゆうへい、1989年9月17日 - )は、大阪府泉南郡熊取町出身のプロ野球選手(投手)。 == 経歴 == === プロ入り前 === 小学5年時に父が監督を務めるリトルリーグに双子の兄とともに入団し、本格的に野球を始める。熊取北中学校時は貝塚シニアに所属し、3年時からサイドスローに挑戦。その理由は「何も特徴がないのでサイドに変えろといわれて」〔関西の逸材(上)中後悠平投手(近畿大) 産経新聞 2011年10月25日〕。 地元大阪を離れ、父の出身地である和歌山県新宮市の近大新宮高校に兄とともに進学。スポーツ進学コースの第1期生であり創部されたばかりの野球部の1期生であったが、2年夏からベンチ入り。3年時は和歌山大会準々決勝で敗れた。 高校卒業後は近畿大学に進学し硬式野球部に入部すると、1年次の春から公式戦に出場。しかし初めの一年間は徹底的に下半身強化にあてた。 2年次の春には10試合中9試合に登板し3勝0敗、防御率1.47の好投で大会MVPを受賞。近畿大学の2季ぶりの優勝に大きく貢献した。2009年全日本大学野球選手権大会で全国大会デビューを果たし、対桐蔭横浜大学戦で1失点完投勝利を挙げた。夏に第25回アジア野球選手権大会の日本代表、秋には第37回日米大学野球選手権大会の日本代表に選出。3試合に登板し、4回を被安打4、奪三振6、与四球1という成績だった。また11月22日に東京ドームにて開催された日本初の「プロと大学の選抜チーム同士による交流戦」であるU-26 NPB選抜 対 大学日本代表の大学日本代表にも選出されたが、この日の登板は無かった。 3年春のリーグ戦では8試合に登板し4勝2敗、防御率1.11で大会2位でベストナイン選出、秋のリーグ戦では7試合に登板し2勝3敗、防御率0.98で大会1位の成績を残した。また同年に開催された第5回世界大学野球選手権大会の日本代表に選出。3試合に登板し、打者11人に対して被安打1、4奪三振。 4年春のリーグ戦では8試合に登板し5勝3敗。防御率0.74は大会1位でベストナインに選出。続く秋のリーグ戦では10試合に登板し3勝4敗。防御率2.15とふるわないものの、奪三振数は72を記録。9月29日に連盟を通じてプロ志望届を提出した。 関西学生リーグでは50試合に登板し、通算成績19勝13敗、260奪三振、防御率1.48。日本学生野球協会・第44回「大学の部」にて表彰選手に選ばれた〔表彰選手 日本学生野球協会〕。 2011年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから2位指名を受け、11月21日に仮契約を結んだ〔「中後、変幻フォーム貫く!成瀬&藤岡と左腕王国つくる 」 スポニチ Sponichi Annex (2011年11月22日)、2011年12月3日閲覧。〕。背番号は「16」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中後悠平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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