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中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日〔〕 - 没年不明)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 == 来歴・人物 == 諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)在学中に、甲子園に2回出場(春1回〔1930年〕、夏1回〔1930年〕)。1930年春の大会では、優秀選手賞を受賞。そして、最後の出場となった1930年夏の大会では準優勝投手に輝いた〔〕。長野県きってのNo.1投手との誉れ高く〔〕、その後明治大学やノンプロの諏訪紡績でも活躍した。 1937年に大東京へ入団。プロ野球入団後は内野手に転向し、「三振か長打か」の荒削りなバッティングで人気を博した。同年春季シーズンで喫した46三振は、リーグ最多三振記録(1939年に佐藤武夫〈東京セネタース〉が56三振をマークするまではプロ野球記録でもあった〔打撃各部門最高記録の推移3(塁打・犠打・三振・四死球・併殺打)-MS-DATABASE SPORTS DATA INDEXのページ 〕)。春季シーズン終了後、1度目の応召。チーム名がライオンに変更した1938年に帰還し、秋季シーズンより復帰した。大東京~ライオン時代、親会社の共同印刷の専務だった大橋松雄は、地方遠征などでヒット1本打つごとに50銭の賞金を出していて、中村はよくこの賞金(通称ゲッポー【月俸】)を稼いでいたので、ゲッポーとあだ名がついた逸話も残っている〔坪内道典著『風雪の中の野球半世紀』、ベースボール・マガジン社、1987年より抜粋。〕。 1939年に名古屋軍へ移籍。「投手三本柱」と呼ばれた、松尾幸造,村松幸雄,西沢道夫が相次いで故障し、先発ローテーションでは繁里栄しか残っていなかったため、大沢清と共に野手から投手へ急遽登板する事になった。実は前年の従軍時に 北京の陣内で開かれた軍隊対抗野球試合で投手として登板し、4試合連続勝利で優勝した事があり〔、その実績を買われて投手に立つ事になった。全盛期の球威は無くなっていたが、9試合登板し、3完投、2勝3敗、防御率4.40の記録を残した。また、名古屋では内野のユーティリティプレイヤーとしても活躍した。 1940年11月28日に2度目の応召。翌日の金鯱戦(後楽園球場)が最後の出場になった〔。この試合で本塁打を放ち、有終の美を飾った。鈴木龍二は自著〔鈴木龍二著『鈴木龍二回顧録』、1980年〕で当時の事をこう記している。「中村が召集令を知らされたのは。長野の旅館であった。犀北館という旅館で夕食をとっているとき「中村さん電話です」と呼び出された。その電話が赤紙、つまり召集令状が来たという知らせであった。その夜は送別会になった。翌日、名古屋との試合に出場した中村は、ホームランを打った。中村はホームランを打つバッターではなかった。その中村がホームランを打って大活躍をした。そうして郷里の諏訪へ帰っていった。」と。 その後プロ野球界に復帰する事はかなわず、ノモンハン(ノムンハーネイ・ブルド・オボーのこと。ノモンハン事件とは無関係〔ノモンハン事件が起きたのは1939年5月~9月であり、中村が出征した1940年12月以降とは時期的に符合しない。〕。)で戦死した〔(没年月日は不明)。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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