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中村 之保(なかむら ゆきやす、1944年9月11日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手である。ポジションは内野手(主に二塁を守った)。 なお、本名の読みは、大学時代までは「これやす」であった。 == 来歴・人物 == 札幌市出身で、北海高校(北海道)では甲子園に3回出場。1961年の第33回選抜高等学校野球大会では、1回戦で御坊商工に延長10回サヨナラ勝ち。2回戦は同期の今井義則投手が先発するが、この大会に優勝した法政二高の柴田勲投手に抑えられ敗退。中村は控え二塁手として途中出場し、柴田から二塁打を放つ。3年生の1962年は主将、遊撃手、一番打者をつとめる。第34回選抜高等学校野球大会は1回戦で御所工に敗れる。同年第44回全国高等学校野球選手権大会は準々決勝に進出し、エース伊藤久敏を擁する久留米商と対戦。同期の松谷栄司投手が試合中に骨折、1期下の吉沢秀和投手が急遽リリーフするアクシデントもあり、9回に逆転負けした。他のチームメートに1期下の谷木恭平中堅手がいる。 高校卒業後は、法政大学に進学。東京六大学リーグでは在学中2度優勝。特に1965年春季リーグでは、四番打者の長池徳二外野手、同期のエース里見忠志(河合楽器)とともに優勝に貢献している。翌1966年、4年時の春季リーグでは打率.314を記録。秋季リーグでは打率.339をマークし、ベストナイン(二塁手)に選出された。大学同期には里見の他、近藤徹三塁手(日本コロムビア)がいた。 同年秋、第二次ドラフト1位指名にて、南海ホークスへ入団。俊足で守備力にも定評があり、1年目は主に遊撃手として62試合に出場したが、打撃面で伸び悩み、その後は出場数が激減した。1970年オフ、自由契約選手となり、阪神タイガースに移籍。移籍1年目は二塁手として60試合に出場した。しかし、翌1972年は15試合の出場に留まり、同年を最後に引退した。 エスエスケイの相談役を経て、現在は、エヌツーワールド代表取締役社長である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村之保」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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