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中村 妙子(なかむら たえこ、1923年2月21日 - )は、東京府出身の日本の翻訳家。 == 略歴 == 1923年、東京府大森町(現東京都大田区大森)に生まれる。父は牧師の佐波亘〔日本キリスト教会の大森教会に属す。編著に「植村正久とその時代」(教文館:1937年 - 1938年)がある。〕。母方の祖父は植村正久。1935年に恵泉女学園入学、1940年に津田英学塾に入学する(1943年に津田塾専門学校へ改称)。同校を卒業後、情報局第三部(対外情報課)の戦時資料室へ勤務、海外資料の翻訳にあたる。 1945年、蒲田で東京大空襲に遭う。敗戦後に連合国軍総司令部 (GHQ/SCAP) の民間情報教育局 (CIE) へ勤める。 1947年、ヨハンナ・スピリの小説を訳した「マクサの子どもたち」が『少女の友』(実業之日本社)に連載される。同年5月に最後の英語科高等教員検定試験に受験し合格、10月に英国議会史の中村英勝と結婚する。1950年、第二子を妊娠中に東京大学を受験、西洋史学科に入学する。在学中に肺結核となるが、1954年に卒業する。卒業後は中野好夫の指導の下で翻訳活動を本格的に始める。津田塾大学で週1回翻訳論を教えた。1985年、三省堂の現代文教科書にジョゼフ・P.ラッシュの『愛と光への旅』が収録された。雑誌「ダヴィンチ」2006年1月号のC・S・ルイスの伝記に関する記事で、インタビューに答えている。 評伝に、津田塾卒業生40名を描いた『津田梅子の娘たち―ひと粒の種子から』(川本静子、亀田帛子、高桑美子著、ドメス出版、2001年)がある。『陛下をお救いなさいまし―河井道とボナー・フェラーズ』(岡本嗣郎著、集英社、2002年)にも恵泉の生徒の1人として登場する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村妙子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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