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中村 彦次(なかむら ひこじ、1840年(天保11年1月)- 1911年(明治44年)11月18日〔『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』457頁。〕)は、明治期の教育者、政治家。衆議院議員、官選島根県知事。名・庸、字・和叔、号・桐蔭、旧姓・鶴田〔『筑後市史』第二巻、63-65頁。〕。 ==経歴== 筑後国上妻郡前津村(現筑後市前津)で、庄屋・鶴田良右衛門の二男として生まれ、後に中村氏を称した。地元の私塾・継志堂で学ぶ。安政4年(1857年)に師・牛島栗斎に随行し8カ月間にわたり山陽から奥羽まで遊歴し見聞を広めた。その後、咸宜園で学んだ〔。 王政復古後、国事に奔走するなかで、久留米藩に逃れてきた大楽源太郎に同調したため、久留米藩難事件に連座し明治4年(1871年)に禁獄一年の刑を受け名古屋の監獄に収監された〔。 出獄後に帰郷。1875年4月から1877年12月まで羽犬塚小学校長を務めた。また、有志とともに山内村(現八女市山内)に変則中学中洲校を創立した。1878年10月、郡書記に就任。1887年12月、上妻・下妻郡長となり、1889年2月、生葉・竹野郡長に転じた〔。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に福岡県第5区から出馬するも落選。1892年2月の第2回総選挙で当選し、生葉・竹野郡長を依願退職〔〔。その後、1894年9月、第4回総選挙でも当選し〔、衆議院議員を二期務めた。1897年4月7日、島根県知事に就任〔『新編日本の歴代知事』781頁。〕。簸川尋常中学校を設立〔『府県制の沿革と県政の回顧』73頁。〕。1898年4月2日、知事を非職となり〔、同年12月14日、依願免本官となり退官した〔『官報』第4639号、明治31年12月15日。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村彦次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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