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中村 憲剛(なかむら けんご〔漢字表記から「けんごう」と誤読されることがあるが、正しくは「けんご」である。〕、1980年10月31日 - )は、東京都小平市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・川崎フロンターレ所属。ポジションはミッドフィールダー(主にボランチ)。元日本代表。 家族は妻と1男1女。 == 来歴 == 小学1年生でサッカーを始め、府中市の府ロクサッカー少年団に所属。少年団の先輩に澤穂希、後輩に保坂一成がいる。5年生の時に全日本少年サッカー大会でベスト16を経験した。また6年生の時に出場した第8回東京都少年選抜サッカー大会では開会式で選手宣誓を務めたほか、飯尾和也、高橋泰、星大輔らと共に大会優秀選手10名に選ばれた。 その後東京都立久留米高等学校を経て、大学サッカー界の名門中央大学の文学部文学科英米文学専攻にスポーツ推薦枠を受験し、進学を決める〔永遠のサッカー小僧 中村憲剛物語 (森沢明夫著、講談社)〕。大学3年時には、52年連続で守ってきた関東リーグ1部の座を明け渡し2部降格の屈辱を味わったが、大学4年生となった翌年の2002年、チームの主将として2部優勝を果たし一年で1部復帰を決めた。 2003年、テスト生として参加していた川崎フロンターレに正式入団。同シーズン開幕戦となる広島戦で初出場、4月9日の山形戦では初得点を挙げた。 入団当初は攻撃的ミッドフィールダーだったが、2004年に関塚隆監督の提案でボランチへコンバート。 2006年、イビチャ・オシムが就任後、A代表に初選出。10月4日のガーナ戦で初出場、10月11日のインド戦で代表初得点を挙げる〔。以後、日本代表メンバーに定着している。また、川崎フロンターレ史上初のJリーグベストイレブンに谷口博之と共に選出され、以降4年連続でベストイレブンを受賞している。 2009年5月5日、AFCチャンピオンズリーグ2009において、天津康師傅との試合中に天津のトレーナーが飛び出してきて、そのトレーナーから足蹴りをくらうという被害を受けた。 2010年2月23日、AFCチャンピオンズリーグ2010の城南一和戦での負傷により戦線離脱。検査の結果、下顎骨骨折と診断されて、南アフリカワールドカップのメンバー入りが危ぶまれたが、4月14日には予定よりも早く復帰を果たし、5月10日、ワールドカップ最終メンバーに選出された。本大会では決勝トーナメント第一戦のパラグアイ戦に後半途中から交代出場した〔。 2011年10月11日の2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選のタジキスタン戦では約1年ぶりに先発出場すると、2年ぶりの得点を含む1得点3アシストの活躍でチームの大勝に貢献した〔中村:「チームに貢献できた」 Goal.com 2011.10.12〕〔中村憲剛、本田圭佑とのトップ下並存へ 背番号14のもたらす効果と課題を考える スポーツナビ 2011.11.13〕。 2012年シーズンではキャプテンとして全34試合に出場し5得点を挙げ、アシスト数はリーグ最多の13アシストだった。第19節の大宮アルディージャ戦ではボレーシュートを決め、それまで4試合連続無得点だったチームを救いその後4-1で逆転勝利を果たした。また、このゴールは週刊サッカーダイジェストの年間ベストゴールランクの10位となった。 2013年のシーズンではその年から加入した大久保嘉人とレナトと共に川崎の攻撃の中心となった。若干のケガや体調不良などで欠場した試合もあったものの、最終的にリーグ戦で29試合7得点を記録。アジアチャンピオンズリーグへの出場権獲得へおおきく貢献した。 2014年5月12日の2014 FIFAワールドカップ日本代表メンバー発表では落選。5月13日に林卓人、細貝萌、豊田陽平、水本裕貴、駒野友一、南野拓実らと共に日本代表予備登録メンバーに選出された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村憲剛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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