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砂川捨丸・中村春代(すながわ すてまる・なかむら はるよ)は大正、昭和の高度経済成長期にかけて活躍した日本の漫才コンビ。出囃子は『岩見』。 == 略歴 == 1923年1月 コンビ結成。 : 明治後期の萬歳(まんざい)の型を残しつつ、新たな要素も取り入れ演じ続けたパイオニア的な存在であり、ボケとツッコミの2人が演じる、いわゆる『漫才』が一般的になってきた頃にも、ハリセンで春代が捨丸を叩くと言う、太夫・才蔵で成り立つ『萬歳』の形を伝えていた。その他にも串本節も取り入れ全国に広めた功績をもつ。 : 「え~、漫才の骨董品でございましてぇ」のやり取りで始まる。捨丸は大正時代から紋付袴姿で鼓を持った愛嬌ととぼけたいでたちで高座を勤めを最後まで通し続けた(現存している写真では背広姿で鼓を持ったものもある)。 :また捨丸が一人で舞台立つこともあった、その時は録音した三味線と詩吟のテープで改良剣舞の「忠臣蔵」を踊ったこともあった。 戦後、2人を座長としてミスワカサ・島ひろし等と共にアメリカ巡業に3ヶ月公演に渡る。この時のエピソードとしてアメリカの空港の税関で調べられ、鼓や帯、袴など係員に質問されると捨丸は「ジャパン・チャップリン」と答え、係員を納得させ税関をパスしたという。これが元で捨丸は「和製チャップリン」の異名を持った。 1967年 上方漫才大賞特別賞受賞。 1968年 大阪府民劇場賞受賞。 1971年9月の神戸松竹座が最後の舞台となる。演題は「舞い込み」で、朝日放送に映像が残っている。同年11月、角座で捨丸引退興行を予定していたが、急死により追善興行になった。 ※尚、捨丸春代コンビを知らない世代の漫画ファンの間で、じゃりン子チエの中の竹本テツの恩師である少年院長の捨丸院長は彼がモデルになったことにより、後世に名前を残す事となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「砂川捨丸・中村春代」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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