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中村 時広(なかむら ときひろ、1960年1月25日 - )は、日本の政治家。愛媛県知事(公選第17・18代)。松山市長(第27・28・29代)、衆議院議員(1期)、愛媛県議会議員(1期)を務めた。 元松山市長の中村時雄は父。 == 来歴 == 愛媛県松山市生まれ〔愛媛県庁/知事のあいさつ 〕。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。1982年、三菱商事に入社し、燃料部に配属される〔愛媛県知事 - 中村時広 オフィシャルウェブサイト|TOKIHIRO.JP - プロフィール 〕。 1987年、愛媛県議会議員選挙に出馬し、初当選した。1990年、1期目の任期途中で愛媛県議を辞職し、第39回衆議院議員総選挙に旧愛媛1区(定数3)から無所属で出馬したが、得票数5位で落選。その後日本新党に参加し、1993年の第40回衆議院議員総選挙では日本新党公認で旧愛媛1区から出馬。日本社会党前職の宇都宮真由美に約7千票差で競り勝ち、得票数3位で当選した。1994年、日本新党解党により新進党に合流。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、新進党公認で愛媛1区から出馬したが、自由民主党前職の関谷勝嗣に約5千票差で敗れ、落選した。 1999年、松山市長選挙に無所属で出馬し、3選を目指す現職の田中誠一市長を破り当選した。以後、2010年まで松山市長を3期11年間務める。松山市長在任中は坊っちゃんスタジアムへのオールスターゲーム誘致や、フィールド・ミュージアムの考えを取り入れ、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』をモチーフにしたまちづくりを推進した。また松山市役所の行政改革にも取り組み、2000年には四国で初の総合窓口を導入し、2006年にはコールセンターを開設した。中村の市長在任中、松山市は四国内で1位かつ唯一の50万都市だったが、積極拡大政策により政令指定都市を目指したり、道州制導入後の州都を目指す考えは示さなかった(周辺に大きな都市がなく、合併を重ねても、人口規模拡大は現実的に困難であるため)。 2010年9月、愛媛県知事の加戸守行が任期を2ヶ月残して辞任。それに伴う愛媛県知事選挙への出馬を表明し、10月21日に松山市議会議長に対し、辞職願を提出した。また松山市議会の会派である松山維新の会からも推薦を受けた。愛媛県知事選では、加戸前知事の事実上の後継候補であったため、自民党をはじめ県議会に議席を有する各政党から支援を受けた一方で、中村の辞職に伴う松山市長選挙では、自民党愛媛県連が候補を擁立したのに対し、中村は自身の後継候補である野志克仁を支援した。11月28日投開票の愛媛県知事・松山市長のダブル選挙において、知事選では中村が、市長選では中村が擁立した野志が当選した。 2012年9月2日、自身が代表を務める政治塾「えひめ志高塾」を開講した。2014年11月の愛媛県知事選挙では、自由民主党・民主党の県連の推薦、みんなの党・社会民主党の地方組織の支援を受け、愛媛県知事に再選された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村時広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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