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中村 直志(なかむら なおし、1979年1月27日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはMF。船橋市立船橋高等学校、日本大学卒業。 == 来歴 == 小学校3年生のとき、地元船橋市立芝山東小学校のサッカー部に入部する。5年生から船橋市の選抜チーム(船橋FC)に選ばれ、6年生で全国少年サッカー大会に出場した〔。中学校進学にあたり、ジェフユナイテッド市原ジュニアユースのセレクションに合格〔。1つ下の世代に酒井友之や村井慎二らがいた〔。 中学卒業間近にコーチからユース昇格は厳しいと宣告され一時はサッカー自体を諦めかけたが、船橋FC時代の恩師の計らいにより船橋市立船橋高等学校へ進学、サッカー部へ入部した〔。高校3年時には高校選手権で優勝。決勝戦の相手は中村俊輔率いる桐光学園であった。なお、この試合で対戦した両校イレブンからは中村直志と中村俊輔を含め、中村直志の同級生であった北嶋秀朗・吉川京輔・佐藤陽彦など多数の選手がプロ入りしている〔。 セレクションで合格した日本大学へ進学したが、当初は環境の酷さに戸惑ったという〔。関東選抜や大学選抜に選ばれ、大学選抜の日韓戦を見た当時グランパスでコーチを務めていた三浦哲郎から練習参加の誘いを受ける〔。同時に地元の柏レイソルからも誘いを受けていたが、設備や雰囲気、ストイコビッチが在籍していたことなどから名古屋グランパスへの入団を決める〔。 2001年の1stステージ第2節ジェフユナイテッド市原戦で初出場すると、サイドハーフとして起用される機会も多く、鋭いドリブルやミドルシュートを見せた〔。そのプレーにより「ピクシーの後継者」の1人として名前が挙げられていた。また、2ndステージ第1節ガンバ大阪戦〔で初得点を挙げた。 2002年は本職の攻撃的MFで起用された〔が、2003年はチームの守備の強化のために守備的MFにコンバートされ〔、2004年はまた攻撃的MFに戻され〔、2005年にはチームの基本システムが4-4-2に切り替えられたことにより右サイドハーフとして起用されるなど、ポジションが固定されないシーズンが続いた。また2005年には、シーズン中の入退団も多かった事情からフォワードを務める試合もあった。2006年も引き続き右サイドハーフでの出場が多かったが、2007年は右ウィングバックやサイドバックなど守備的なポジションでの起用が多く〔、プロ7年目で初めての無得点のシーズンとなった。 そんな中、2006年には日本代表候補に選出され、4月21日から23日の強化合宿に参加。8月9日のキリンチャレンジカップのトリニダード・トバゴ戦に向け、追加メンバーとして日本代表に初招集される。続いてのアジア杯イエメン戦でも代表入りを果たす。 2008年にストイコビッチが監督に就任すると、中村にボランチの適性を見出しレギュラーとして固定される。高いパス成功率(2008年5月実績で80%台〔)と献身的な守備〔を武器にチームの攻守を繋ぐ重要な役割を果たし、3位躍進に貢献した。2009年も引き続きボランチとして30試合に出場し、ACLや天皇杯では4年ぶりとなる公式戦での得点を挙げた。その後も怪我により出場試合が激減した2012年を除いて主力として多くの試合に出場したが、2014年11月16日にシーズン限りでの引退を表明した。 引退後の2015年2月1日付で株式会社名古屋グランパスエイト・ホームタウン推進部の正社員となり、現役時代の知名度を生かしたプロモーション活動を展開する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村直志」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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