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中村 梅太郎(なかむら うめたろう、1907年12月30日 - 没年不詳〔)は、日本の俳優である。本名柳川 勝好(やながわ かつよし)で、子役時代は中村 福呂(-ふくろ)、映画界に入ってマキノ 梅太郎(-うめたろう)と名乗るが、マキノ家の人間ではない。一時、尾上 梅太郎(おのえ うめたろう)を名乗る。出演した映画はすべてサイレント映画であった。 == 来歴・人物 == 1907年(明治40年)12月30日、兵庫県神戸市に生まれる〔『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「中村梅太郎」の項(p.413)を参照。同項執筆は岡部龍。〕。 中村福助に入門〔立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「管家紅葉 氏談話 」の記述を参照。〕、1912年(明治45年/大正元年)、4歳のときに「中村福呂」を名乗り、大阪「浪花座」で初舞台を踏む。7歳のときには、中村鴈治郎 (初代)が浅岡を演じた『先代萩』で千松を演じた。18歳のときには、京都「三友劇場」に出演、また市川九団次一座にも参加していた〔。 1927年(昭和2年)4月、19歳のとき、京都のマキノ・プロダクション御室撮影所に入社する。牧野省三から「マキノ梅太郎」を命名される。入社第1作は富沢進郎監督、武井龍三主演の『闇をゆく者』で、同作は同年8月5日に公開された〔。明けて1928年(昭和3年)1月10日公開の『ひよどり草紙 第一篇』では主役を張った。また同年、梅太郎を含め、マキノ家ではないが「マキノ」姓を拝命した5人の若手俳優を「マキノ青年派」と名づけ、牧野は彼らを売り出した。結成第1作『神州天馬侠 第一篇』は同年2月3日に公開され、同年中に全4作が製作された〔『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「マキノ登六」の項(p.529)を参照。同項執筆は盛内政志。〕。しかし、同年5月にはマキノを退社、「尾上梅太郎」と改名して日本映画プロダクション連盟に参加してしまう〔ので、二代目マキノ梅太郎は二川文太郎の弟子・田川通(のちの大河内龍)が襲名、『神州天馬侠』の後半2篇は二代目の出演である〔。 同連盟は早々に瓦解し、翌1929年(昭和4年)4月、21歳のとき、「中村梅太郎」と改名して帝国キネマ演芸に入社した。さっそく5月公開の市川百々之助主演作『里見八犬伝』に出演、明けて1930年(昭和5年)には『地獄絵巻』にも出演した〔。 以降の活動は定かではなく、没年は不詳である〔。2014年現在も存命中であれば、満106歳の高齢である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村梅太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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