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中村良三(なかむら りょうぞう、1878年(明治11年)7月26日-1945年(昭和20年)3月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将、位階勲等は正三位 勲一等 功五級。米内内閣の内閣参議。 == 来歴 == 青森県弘前市出身、旧弘前藩士で医師の中村春台の二男。5歳のとき親類の中村了三の養子となる。1896年(明治29年)に青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を卒業後、海軍兵学校入学(27期)。 日露戦争が始まった時には「扶桑」の分隊長をつとめたが、「扶桑」は当時すでに艦齢四半世紀を超え、日露戦争では第三艦隊所属となって地道な哨戒活動に従事していた。第3回旅順港閉塞作戦では「新発田丸」指揮官附として参加〔「第2編 旅順口及び仁川の敵艦隊に対する作戦/第10章 旅順口第3回閉塞」〕。1905年(明治38年)1月に行われた異動では最新鋭の巡洋艦「明石」の航海長兼分隊長に補職され、第二艦隊の第四戦隊として日本海海戦に参加した。 日露戦争後の明治38年12月末、イギリスで建造された戦艦「香取」の受領のために渡英、帰朝後に海軍大学校乙種学生次いで初代の海軍砲術学校高等科学生となり、いずれも首席で卒業。砲術専攻士官の道を歩いた。 大尉の間は砲術校教官、巡洋艦「阿蘇」、「八雲」の砲術長などの役目を果して海大甲種学生に入学。卒業後は主に軍令畑を歩く。第一次世界大戦中には軍令部参謀、のち作戦課長をつとめ、対米作戦の基本となる漸減邀撃作戦の整備を行う。イギリスから要請された日本艦隊の地中海方面への遠征には反対し、賛成派の秋山真之と対立したが、第二特務艦隊が派遣された。中村は戦争末期に英国へ派遣されている。停戦後帰朝し、海大教官となる。 1923年(大正12年)12月、第一水雷戦隊司令官を務め、その後再び軍令部参謀となる。 1926年(大正15年)12月から1929年(昭和4年)11月まで海大校長を務め、1930年(昭和5年)12月、山本英輔聯合艦隊司令長官の下で第二艦隊指令長官を命ぜられた。1年の艦隊暮らしのあとは佐世保鎮守府と呉鎮守府の司令長官を歴任する。 1934年(昭和9年)3月、同期生の末次信正とともに海軍大将に進級してまもなく、友鶴事件のために艦政本部長杉政人中将が引責辞職したことを受けて、同年5月に中村がその後任にあたることになった。しかし佐鎮と呉鎮の司令長官が中将大将任用の親補職だったのに対し、艦政本部長は中将任用で親補職ではなかった。重要性ではある意味鎮守府長官以上であるが、格としては格下げになってしまうために、本職を大将の任用で親補職の軍事参議官とし、艦政本部長は兼職とすることにした。 中村の艦政本部長就任後、友鶴事件の対策に追われている最中の1935年(昭和10年)9月には第四艦隊事件が発生している。多事多難だったといえるが、逆に戦争直前のこの時期に欠陥が露呈したことでかえって戦争前に対策が確立できたことは幸いだったともいえる。 二・二六事件後、粛軍のために陸軍が多数の高級将官を予備役に編入したのとバランスをとるために海軍も先任の大将を何人か予備役編入することとなり、中村に白羽の矢が立てられて1936年(昭和11年)3月に予備役編入となった。 その後、興亜委員会委員、内閣参議を歴任、昭和20年(1945年)、終戦の半年前、高血圧と急性肺炎を併発して、横浜市鶴見区の自邸で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村良三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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