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中村 達太郎(なかむら たつたろう、1860年 - 1942年)は、日本の建築史家、建築家、建築学者。工学博士。東京帝国大学教授として、建築に関する人材の育成に尽力した。また、建築学会草創期に会誌「建築雑誌」の編集を手がける。 工手学校(現工学院大学)造家学科教員。 建築界の各種委員会を嘱託し、建築条例実行委員会委員長として建築法令の制定にも関わる。1921-1923年に建築学会長を務めた。建築学会名誉会長。おもな建築作品に、改良演芸会会場、淀橋浄水場内施設、台湾製糖製造所などがある。 『日本建築辞彙』は日本初の建築用語辞典として知られ、広く読まれた。 ==生涯== 1860年に江戸尾張藩邸で生まれる。1882年、工部大学校造家学科でジョサイア・コンドルに建築を学び、卒業後は工部省営繕局へ入局する。1883年からは皇居造営事務局専務心得になる。1887年からは母校の後身である帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)助教授に就任。1894年教授に就く。 1892年に建築法規の研究のため欧米へ留学する。1894年に震災予防調査委員会委員に就任し、1897年にインドのアッサム地方震災の調査に、1905年にはサンフランシスコへ審査調査に向かう。 1907年には、台湾総督府庁舎設計図案懸賞審査の委員をつとめ、1915年に建築学会の建築条例実行委員長に就任。1918年から、臨時議院建築局の顧問。 1921年東京帝国大学を退官し、名誉教授になる。その後、教え子の田辺淳吉と中村田辺建築事務所を開設するほか、大蔵省営繕管財局顧問もつとめた。1942年に逝去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村達太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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