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中村 錦平(なかむら きんぺい 1935年 - )日本の陶芸家、現代美術家、戦後を代表する革新的陶芸家〔「あの名作住宅をふたたび」藤森照信 『モダンリビング』 2013 1月号〕。石川県金沢市出身。 == 人物像 == 東京焼 窯元、多摩美術大学名誉教授、(財)クラフト・センター・ジャパン元常務理事、国際陶芸アカデミー会員(~2001)。 1993年、個展「東京焼・メタセラミックスで現在をさぐる」で44回芸術選奨文部大臣賞、2006年、顕著な文化活動に文化庁長官表彰。 「陶や土を核とするものの『文明/社会/時代とのやりとりに表現を与える』といったアートをめざす。この半世紀、文明が手工業 → 工業化/高度工業化 → 情報化へと著しく展開するのを見た。初期文明における手工業や陶芸も美しい。だが文明の展開とやりとりできない存在は中身を欠き形骸となる。自らの表現を元気にするのは、時代と切り結ぶことだ、と考えるに至った。」〔「20世紀後半 現代陶芸の50年」中村錦平 『多摩美術大学研究記要26号』(2012)に詳述〕 1935年、金沢の窯元の三代目として生まれる。金沢美術工芸大学彫塑科中退。「割烹 中嶋」で魯山人の器と料理を実学の後やきものを始める。1945年(小4/10歳)の敗戦で心身ともに揺さぶられ、理想主義と批判と革新の意識をもつ。しかし世襲によって、保守的な陶芸界が展開する生地金沢の状況にぶつかる。その状況が反面教師として機能し、アプレゲール(戦後派)なやきものを生む。 1966年、銀座ソニービルとモントリオール万博日本館の「陶の壁」制作 + 個展「せめぎあう戒め度し難し」への評価で、1969年 J. D. ROCKEFFELLERⅢ FUND(現 ASIAN CULTURAL COUNCIL)の日米文化交流フェローに。帰国後、東京・青山にも窯をもつ。「伝統を拠り所とする日本陶芸 vs. 現代文明とのやりとりで成る米国の陶芸」の比較研究を基に、1973年 多摩美術大学で「現代陶芸」を開講。「80年代には多摩美術大学を卒業した人達が登場、現代陶芸の新段階に入る」〔『現代日本の陶芸家達 やきもの新基地 東京』学習研究社 1989〕。 大学教育においても学生達に同時代的手本を示したく実績を積む。「彼は、現代の社会に対して積極的に語りかける。戦後民主主義と文化国家建設の理念の、強烈な時代の申し子的世代の彼としては当然のことだが、戦後30数年を経過した現在では、まことにめずらしい貴重な存在といえる。」「彼の解答である造形は、文学性に富み、詩情に溢れている。従って、一見難解さに満ちているようだが、彼の作家としての義務感、責任感の良心的発露は時として戦闘的、ポレミーク〔「論争的」という意味。〕にみえるが、それこそが彼の造形の真の魅力でもある。」〔『現代日本の陶芸 第14巻』講談社 1984〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村錦平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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