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中村電気軌道株式会社(中村電氣軌道株式會社、なかむらでんききどう)は、かつて愛知県名古屋市において路面電車・バスを運営していた企業(株式会社)である。1936年(昭和11年)に名古屋市電気局(後の名古屋市交通局)に事業を譲渡して解散した。 運営していた電車は「中村電車」、バスは「中村バス」と呼ばれた〔『中村区史』、pp221-222〕。 == 概要 == 1913年(大正2年)10月、名古屋市に隣接した中村(現・名古屋市中村区の一部)における開発事業を開始した会社の名古屋土地〔名古屋土地株式会社は明治44年9月設立。所在地は愛知郡中村。資本金200万円。営業の種類は交通機関の施設、河川水通路開拓荒地開墾()〕〔現在、名古屋市中村区則武二丁目26-15に同名の会社が存在するが関連は不明。〕が、軌道部を設立して路面電車事業に乗り出したことが創始である。最初の路線は、地上駅時代の名古屋駅を跨ぐためにかけられた明治橋(1937年〈昭和12年〉の高架化時に撤去)の西側を起点とし、太閤通を西進して中村公園の入口に至るものであった。鉄道事業者が不動産事業を開始した例は、1910年(明治43年)開業の箕面有馬電気軌道(箕有電車、阪急電鉄の前身)を初として徐々に現れ始めていたが、逆に不動産会社が鉄道事業を行う事例は、現在では紀州鉄道や山万などが存在するが、当時としては珍しいものであった。 1926年(大正15年)6月に名古屋土地から分社化された中村電気軌道の運営に代わり、そのころ後に名古屋鉄道の社長となる藍川清成が当初は取締役、続いて社長に就任した〔『日本全国諸会社役員録. 第44回(昭和11年)』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。この年の電車の乗客は250万9845人であったが次第に減少し、1929年(昭和4年)の乗客は158万2957人となった〔。乗客減少の要因は、駅前を発着せず不便であることと、名古屋駅前を発着し中村遊廓へ向かう他社のバスが1923年(大正12年)9月に運行を開始したためである〔〔『市営五十年史』、p138〕。このバスに対抗して中村電気軌道は1929年1月から名古屋駅前・中村公園間で兼営バスの運転を開始した〔〔が、名古屋市営バスが1933年(昭和8年)7月に那古野町・中村公園間に路線を新設したこともあり収益は少なかった〔。また、電車は名古屋市電より運賃が高く評判が悪かった。 1936年(昭和11年)5月、1935年(昭和10年)から進められていた市内民営交通機関の統合によって中村電気軌道は名古屋市に買収され、電車事業・バス事業は名古屋市電気局(名古屋市交通局の前身)に移管された。買収価格は10万1300円〔〔。買収前の1年間の乗客は、電車が36万8290人、バスが126万9436人であった〔。 中村電気軌道を買収した路面電車は中村線とされ、当初孤立路線であったが、東側は名古屋駅高架化に伴い笹島町まで延長され、既設の名古屋市電の路線に接続した。西側も豊国神社の大鳥居をくぐって中村公園に向かっていた区間を廃止して稲葉地町まで伸延されている。その後、中村線は1972年(昭和47年)2月29日まで運行を続けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村電気軌道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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