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中村 順平(なかむら じゅんぺい、1887年8月29日 - 1977年5月24日)は日本の建築家。建築教育者。大阪府大阪市生まれ。 ==来歴== 旧制天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)を卒業後、1910年に名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)を卒業。曾根・中條建築設計事務所に入所する。 1920年に、岩崎財団の助成をうけ、フランスに渡る。1921年、エコール・デ・ボザールに、33歳にして留学。クロモール&エクスペールのアトリエに所属。ボザールでは、第一次世界大戦直後に学生の年齢上限を35歳まで引き上げたため、受験可能となっている。下級課程を1年で修了、翌年上級課程に進級する一方、イタリアにも足を運ぶ。 入学後最初の学内設計競技12時間のエスキースで「南国の別荘」が第2席に入選。師であるエクスペールからも注目される。そのほかの学内建築設計競技に積極的に参加し、高い評価を得ている。これらのドローイングは、卒業制作である日本学生会館とともに日本画的な描法で描かれている。(卒業制作は、ローマ賞と別で必修科目)この卒業制作は、1923年に関東大震災が発生し、師である中條精一郎から早期帰国を促され、早々と手がけ、またこれによって、フランス政府公認建築士D.P.L.Gの称号を得る。 中村の卒業制作は、1924年春のサロンで展示され、市民からの高い評価を受けるとともに、ボザール教育に批判的だったル・コルビュジエにも評価される。 帰国後、『東京の都市計画をいかにすべき乎』を刊行し、大東京市復興計画案を発表。これは中村が1924年に製作した関東大震災からの理想的復興を示したもので復興が中途半端に実施されている状況を憂い、ドイツ製の高性能カメラで撮影された帝都の空中写真をもとにバロック式の帝都道路交通網が設計されている。「開拓地を視るがごとく」なった東京を前に、パリ帰りの中村は放射パターンの復興計画を掲げた。そして「東京の都市計画を如何にすべき乎」の中身は、地主が復興に反対しているのならその土地だけ残して道路を敷いておく、もちろん東京にはそんな地主はいないだろうという、一種皮肉をこめた内容となっていた。 その後1924年に、鈴木煙州校長率いる横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)に開設設置された建築学科の主任教授として、教育に専念する。中村はここで、日本初のそして唯一のボザール流の建築教育を実践、緻密ドローイングに12時間エスキースなどの課題を課し、また妥協しない指導を展開した。このとき中村は、デザイン教育に関しては学年制を排除した。戦後横浜国立大学移行後も、1950年まで非常勤として教壇に立ち続けた。 また中村が担当したという、当時の建築学会から全国の旧制中学校へ配布した「建築学科(本科)に入学を志望する青年諸君への注意」の序文はつとに有名。 学外では私財を投じて、1925年に東京日本橋に中村塾という名の建築の私塾を設立、多くの建築家を育成した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村順平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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