|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 中 : [なか] 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among ・ 家 : [いえ, け] 1. (suf) house 2. family ・ 家長 : [かちょう] 【名詞】 1. patriarch 2. family head ・ 長 : [おさ] 【名詞】 1. chief 2. head
中条 家長(ちゅうじょう いえなが、長寛3年(1165年〔中世武蔵人物列伝・74頁〕) - 嘉禎2年8月25日(1236年9月26日))は、鎌倉時代の武将。義勝法橋盛尋(中条兼綱)の子。横山党小野氏の出身。従五位下、出羽守。 八田知家の養子となり、道兼流藤原氏を名乗って苗字を中条と改名した。治承・寿永の乱では源範頼の配下に藤次家長の名前が記録されており、おそらく中条家長であると推測されている。鎌倉では若宮大路沿いに自邸を構えていた。 治承8年(1184年)の一ノ谷の戦いでは、源範頼に従って参戦している〔中世武蔵人物列伝・74頁〕。また、文治5年(1189年)から翌6年(1190年)にかけての奥州合戦や大河兼任の乱、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱の討伐軍にも従軍している〔中世武蔵人物列伝・75頁〕。 建久元年(1190年)、源頼朝の許諾を得ず勝手に右馬允に補任され、頼朝の不興を買って辞官した。 建久6年(1195年)には毛呂季光と私闘を起こしている。家長は八田知家の養子となったことで思い上がり、尊大な態度が増えた為、これを咎めてきた季光との間に悶着を起こした〔佐藤・谷口、252頁〕。この喧嘩の為に、心経会が延期となった。頼朝は家長の養父知家に家長の出仕停止を命じている。建仁3年(1203年)、頼朝を奉る法華堂の奉行を務めた。 頼朝死後に政権を掌握した北条氏との関係は円満であったようで、嘉禄元年(1225年)、評定衆が設置されるとその構成員に抜擢され〔中世武蔵人物列伝・75頁〕、幕政の中枢に参画、御成敗式目の策定などに寄与した。 嘉禎2年(1236年)8月25日、寅の刻、72歳で死去。 北条氏の近親が多くを占める評定衆に抜擢されたことから、文臣としても高い能力を持っていたと評価されている〔中世武蔵人物列伝・75頁〕。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中条家長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|