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中江与右衛門 : ミニ英和和英辞書
中江与右衛門[なか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [こう, え, ごう]
 【名詞】 1. inlet 2. bay 
: [みぎ]
 【名詞】 1. (1) right hand side 2. (2) above 3. afore-mentioned 4. foregoing 5. forgoing 
: [もん]
  1. (n,n-suf) (1) gate 2. (2) counter for cannons 

中江与右衛門 ( リダイレクト:中江藤樹 ) : ウィキペディア日本語版
中江藤樹[なかえ とうじゅ]

中江 藤樹(なかえ とうじゅ、1608年4月21日慶長13年3月7日) - 1648年10月11日慶安元年8月25日))は、近江国滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。は原(はじめ)、は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した。〔別号に嘿軒(もくけん)、顧軒(こけん)。出典 「先哲叢談/原念斎・漢学者伝記集成」竹林貫一編〕
== 経歴 ==
農業を営む中江吉次の長男として誕生〔少年時代の藤樹については本人も言及していないが、後世の記録によれば、近所の子どもたちと遊ぶときもいつも物静かで、他の子のように騒ぎまわることはなかったという。本間・越田(2014)p.101〕。9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年元和2年)米子藩主・加藤貞泰伊予大洲藩愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)祖父が死去し、家督100石を相続する。
1634年寛永11年)27歳で母への孝行と健康上の理由によりに対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩しに潜伏の後、近江に戻った。郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)で、私塾を開く。これが、藤樹書院である。1637年(寛永14年)伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤の巨木があったことから、門下生から「藤樹先生」と呼ばれるようになる。塾の名は、藤樹書院という。やがて朱子学に傾倒するが次第に陽明学の影響を受け、格物致知論を究明するようになる。
1646年正保3年)妻・久が死去。翌、1647年(正保4年)近江大溝藩士・別所友武の娘・布里と再婚する。
1648年(慶安元年)藤樹が41歳で亡くなる半年前に藤樹書院を新築した。
その説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し江戸の中期頃から、自然発生的に「近江聖人」と称えられた。代表的な門人として熊沢蕃山淵岡山中川謙叔などがいる。
墓所は滋賀県高島市玉林寺。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中江藤樹」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Toju Nakae 」があります。




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