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中沢 伸二(なかざわ しんじ、1946年6月18日 - )は、山梨県出身の元プロ野球選手(捕手)。 == 来歴 == 山梨県立甲府工業高等学校では同期のエース原初也とバッテリーを組み、1964年春の選抜に出場。1回戦で谷哲男(中日)投手を擁する市西宮高に延長13回サヨナラ負けを喫する〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。1965年に阪急ブレーブスに入団。入団して5年間は内野手・外野手・捕手と様々なポジションを守っていたが、一軍の試合の出場数は少なかった。1969年の日本シリーズ第4戦で岡村浩二が退場になった後にマスクを被ったのは中沢であった〔【10月30日】1969年(昭44) カメラは見ていた…ブロック名人岡村浩二の股下から左足 日めくりプロ野球-2008年10月 スポーツニッポン 2008年10月30日閲覧参照〕。 6年目からは捕手に固定され、1974年には種茂雅之からレギュラーを奪い、入団10年目で一軍に定着。上田利治監督率いる第二次阪急黄金時代の正捕手として活躍。数回にわたるリーグ優勝、日本一に貢献した。 打撃力はそれほどでもなかったが、ディフェンスやリード面は非常に長けたキャッチャーであり、捕手としての能力の高さは(普段は捕手についての採点には辛い)野村克也からも常に高く評価されていた。また監督の上田からは「うちの投手で中沢の頭脳についていけるのは山田(山田久志)くらいだろう」とその頭脳的リードを認められていた。 唯一の欠点は、弱肩とマスコミでいわれる盗塁阻止率であった。しかし、ある年のキャンプでアメリカから臨時バッテリーコーチをよんでマンツーマン指導をうけて、その年から、突然、「強肩中沢」と褒めたたえるような盗塁阻止率を上げた。これによりキャッチャーの盗塁阻止率では、動作各所のタイミングで大変身を遂げられることを示した。 野球は「格闘技である」という持論をキャッチャーの視点から主張している。 長嶋巨人に勝って日本一になった時は、野村克也の呟き作戦が通じなかった王貞治が、「中沢がヘンなタイミングで、イヨーとか掛け声をかけてきて調子狂った」述べている。 1978年にベストナインとダイヤモンドグラブ賞を獲得。18年目の1982年に初めて規定打席に到達し、打率.302(ベストテン6位)をマークし、2回目のベストナインを受賞。この頃から口ひげを蓄えるようになる。1985年限りで引退。21年間の現役生活だった。 1986年〜1994年阪急・オリックスバッテリーコーチ、上田監督の下で1995年〜1998年日本ハムファイターズ一軍バッテリーコーチ、1999年〜2002年オリックスバッテリーコーチ、2003年サーパス(オリックス二軍)の2軍監督に就任するも中尾孝義ヘッド兼バッテリーコーチ解任に伴いシーズン途中からは一軍ヘッドコーチに就任し2004年一軍バッテリーコーチ、2005年〜2006年二軍バッテリーコーチを務めオリックスでは20年近くコーチを務めた。 2007年からJ SPORTS解説者(主にオリックス戦)に就任。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中沢伸二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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