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中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。 == 歴史 == 天武天皇の治世下に「納言」という官職が存在し、飛鳥浄御原令の下でも「中納言」という名称の官職が設置されているが、これが後世の中納言と同じものであるかどうかは断言できない。いずれにせよ、この中納言は大宝元年(701年)3月の大宝令の施行とともに廃止された。 慶雲2年(705年)4月、大納言の定員が4人から2人に減らされたことにともない、その不足を補うものとして新たに中納言が設置された。その際の勅には、その任務を「宣旨を敷奏し、参議に待問す」と定めている。基本的には大納言と同様、奉勅・宣旨と奏上に当たり、大臣とともに政務を議することである。大納言との違いとしては、太政官符などの宣者(発令者)になれなかったことであったが、延暦年間以降は中納言を宣者とする太政官符も出現するようになる〔柳雄太郎「太政官における四等官構成」(初出:『日本歴史』324号(1974年)/所収:柳『律令制と正倉院の研究』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-04617-6)〕。一説には国家の大事についての奉勅・宣旨と奏上は大納言が務めることになっていたが、官位相当制の関係で大納言の定数を満たすことが難しかったためこれを補うために奉勅・宣旨と奏上を担当する官として中納言を復置したとされる〔。官位相当制により当初は正四位上であったが、天平宝字5年(761年)2月に従三位に改められた。定員は3人であったが、その後権官(権中納言)が置かれるようになり、定員は有名無実となった。 平安時代を通じて徐々に貴族人口が増大していったのにともない、官位昇進を求める貴族たちからの圧力も増大し、当初、参議を15年以上務めた者のなかから選ばれることになっていた中納言就任条件は次第に緩和され、在任者も増加した。後白河院政期には10人に達した。嘉応2年(1120年)12月30日に平宗盛が任ぜられ9人の例を開き、嘉応3年/承安元年4月21日(この日改元)に平時忠が解官されていた権中納言に還任したことで10人となる〔『玉葉』承安元年(1171年)4月22日条〕。 後白河の死後、九条兼実が引き締め策を採って8人にまで抑えている。その後、後鳥羽院政期に再び10人に復し、結局これが定員として長く定着することになった。南北朝時代以降は正官は任命されなくなり、もっぱら権官だけが置かれた〔高田与清『官職今案』。大納言も同様に権官のみとなった。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中納言」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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