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大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃〔『公卿補任』天応元年(781年)条で64歳としており、逆算して生年は養老2年(718年)となる。一方、宝亀11年(780年)条では天平元年(729年)生まれとしている。〕 - 延暦4年8月28日(785年10月5日)は奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。 『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。 == 経歴 == 父・旅人が大宰帥として大宰府に赴任する際には、母・丹比郎女、弟・書持とともに任地に従っている。後に母を亡くし、西下してきた叔母の大伴坂上郎女に育てられた。天平2年(730年)旅人とともに帰京。 天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下に叙せられる。天平18年(746年)3月に宮内少輔、6月に越中守に任ぜられ、天平勝宝3年(751年)まで赴任。この間に223首の歌を詠んだ。 少納言に任ぜられ帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、『万葉集』の防人歌収集につながっている。天平宝字2年(758年)に因幡守。翌天平宝字3年(759年)1月に因幡国国府で『万葉集』の最後の歌を詠む。 天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱には参加しなかったものの、藤原良継(宿奈麻呂)・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺計画を立案したとされる。暗殺計画は未遂に終わり、天平宝字7年(763年)に4人は逮捕されるが、藤原良継一人が責任を負ったことから、家持は罪に問われなかったものの、翌天平宝字8年(764年)に薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。天平宝字8年(764年)9月、藤原仲麻呂の乱で藤原仲麻呂が死去。 神護景雲1年(767年)大宰少弐に転じる。神護景雲4年(770年)称徳天皇が没すると左中弁兼中務大輔と要職に就き、同年正五位下に昇叙。光仁朝では式部大輔・左京大夫・衛門督と京師の要職や上総・伊勢と大国の守を歴任する一方で、宝亀2年(772年)従四位下、宝亀8年(777年)従四位上、宝亀9年(778年)正四位下と順調に昇進、宝亀11年(780年)参議に任ぜられ公卿に列し、翌宝亀12年(781年)には従三位に叙せられた。 桓武朝に入ると、天応2年(782年)正月には氷上川継の乱への関与を疑われて一時的に解官され都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。同年4月には罪を赦され参議に復し、翌延暦2年(783年)に中納言に昇進するが、延暦4年(785年)兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没したという説と遙任の官として在京していたという説がある。したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがある。 没直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、埋葬を許されず〔長谷部将司は種継暗殺事件は家持の死から1か月後の事件であるにも関わらず、家持の埋葬が済んでいなかったとするのは不自然であり、家持の死去の場所は長岡京の外すなわち陸奥国であるとし、同時に種継暗殺への関与を疑問視する(長谷部将司「〈崇道天皇〉の成立とその展開―九世紀における〈天皇〉の位相―」根本誠二 他編『奈良平安時代の〈知〉の相関』(岩田書院、2015年) ISBN 978-4-87294-889-9)。〕、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国に配流となった。延暦25年(806年)に罪を赦され従三位に復された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大伴家持」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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