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中臣 名代(なかとみ の なしろ)は奈良時代の貴族。中臣氏一門、小錦上・中臣垂目の孫で、中臣島麻呂の子。中臣御食子は曾祖父にあたる。 == 経歴 == 神亀6年(729年)外従五位下から従五位下に叙される。 天平4年(732年)遣唐副使に任ぜられる(大使は多治比広成、判官は平群広成ら)。天平5年(733年)四船で出国し、8月に四船とも蘇州の沿岸に漂着。天平6年(734年)洛陽に入ったのち帰路につく。なお、この際には留学生吉備真備や玄昉が帰国に応じた。しかし、東シナ海上で俄かに悪風が起こり四隻は互いに離れ離れになってしまう。大使・広成は種子島に無事漂着するが、名代らの乗る二船は唐に送り返された。名代らは再度洛陽に入り、唐の援助により船を修理。天平7年(735年)閏11月には洛陽を発ち無事帰国することができた。天平8年(736年)帰朝の挨拶をするために唐人三人とペルシャ人一人〔『続日本紀』巻第十二 聖武天皇 天平八年(736年)。李密翳(り・みつえい)は、松本清張の歴史小説『眩人』でも知られる人物。〕を率いて拝朝し、聖武天皇に謁した〔『続日本紀』天平8年8月23日条〕。 同年11月に従四位下に叙され、神祇伯に任ぜられる。 天平12年(740年)藤原広嗣の乱が発生する。名代は乱に連坐して流罪、天平13年(741年)塩屋吉麻呂、大養徳小東人らとともに大宰府に派遣され特設の軍事裁判を受ける。天平19年(745年)9月、赦免されることなく配所で卒去したという〔『続日本紀』天平19年9月19日条〕。享年不明。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中臣名代」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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