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北京政府(ぺきんせいふ)とは、 * 1912年から1928年まで北京に存在した中華民国政府。北洋軍閥政府ともいう。本項で記述。 * 現在の中華人民共和国政府を指す換喩。 == 袁世凱政権 1912年-1916年 == 中華民国は、1911年の辛亥革命によって、1912年1月1日、南京において成立した。 しかし、この時点では中国を代表する政府として国際的に承認されていた清が北京に存続していた。 両者は、宣統帝退位、臨時大総統職の孫文から袁世凱への移譲、「臨時約法」遵守などで合意し統一された。袁世凱は、中華民国の首都を南京から自らの勢力基盤である北京にうつしたが、これが北京政府のはじまりである。 袁世凱は勢力基盤いわゆる北洋軍閥の力を背景に中央集権的な統治を志向し、中央においては議会制民主主義を標榜する宋教仁が台頭するとこれを暗殺、地方においては従来わけられていなかった行政権と軍事権を分離させ清末以来土着化する傾向にあった地方勢力を中央政府の統制下に編成していった。これによって、革命の混乱に乗じて地方勢力に梃入れして中国の分割を図ろうとする列強の動き(中国分割論)を牽制した。 こうした専制に対して、1913年7月、江西の李烈鈞らが中心となって第二革命が起ったが、事前に袁世凱側がこの動きを察知していたこと、反袁勢力が分立し結集できなかったことなどから鎮圧され、結果的に袁世凱の力をより強めることになった。 袁世凱は辛亥革命時の暫定的な地位である臨時大総統から正式な大総統に就任、大総統に強大な権限を集中させる新約法を公布させ、1914年1月10日には国会を解散させるなど独裁をつよめた。 このような集権的統治が可能であった要因のひとつに、袁世凱が列強諸国の支持をえていたことがあげられる。 列強諸国は清以来の権益の保障、借款の窓口として中国に安定した政権を必要としていた。 この要求にこたえつつ、列強諸国の力を利用して袁世凱は統治を行った。 このことは中国の半植民地化をすすめることにつながったともされるが、その手法は後の開発独裁的なものであったともされる。 そのなかで、各方面で近代化がおしすすめられた。法制整備、積極的な産業振興、大総統に軍権を集中させた軍隊の近代化、学校制度の整備による教育の普及などである。 袁世凱は独裁体制を確立すると帝制を模索しはじめるが、第一次世界大戦の勃発後急速に衰頽した。 1915年、列強諸国がヨーロッパでの主戦場に釘付けとなった際、アジアでの勢力拡大をはかる日本からの対華二十一カ条要求を日本が帝制を支持することとひきかえに受理し、同年12月、帝制復活を宣言したものの国内外の大きな批判にさらされ、雲南の蔡鍔、唐継堯、李烈鈞などによる第三革命(護国戦争)が勃発した。 中国国内の混乱をみて日本をはじめとする列強諸国は帝制反対へと態度を変え、さらには北洋軍閥内部からの反発をもうけ、1916年3月22日に帝制を取消したものの、袁世凱は権威を失墜させたまま同年6月6日病死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北京政府」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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