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中里貝塚(なかざとかいづか)は東京都北区上中里にある貝塚。国の史跡に指定されている。縄文時代の「水産加工場」と大々的に報道された。隣接する用地に中里遺跡がある。 == 概要 == 中里貝塚はJR上中里駅の東方に1km以上延びる縄文時代の貝塚である〔 〕。中里貝塚は、東京都北区の飛鳥山の台地の下に細長く突き出た、かつての砂州の上に形成され、武蔵野台地を下から上を見上げるような低地にある。現在は公園整備が行われ、周辺は市街地で公園に表示板があるのみである。縄文時代中期から後期の大規模な貝加工場であったと考えられている。 江戸時代から貝殻が大量に出土する「かきがら山」として知られ、その広がりは、南北1キロメートルほどの規模になるものと推定される。1886年(明治19年)に白井光太郎によって「中里村介塚」として初めて当時の学会に報告された。日本で最初に発掘された大森貝塚発掘から9年後のことである。和島誠一によって1958年(昭和33年)調査が行われ、貝層の中から少ない量ではあるが、縄文時代中期の土器片が出土した。このことからやっと縄文時代の貝塚であることが分かった。1996年(平成8年)には旧国鉄跡地の公園整備にかかわり発掘調査がなされた。1999年(平成11年)にもマンション建設に先立つ調査が、1996年の調査地点の西120メートルのところで行われた。 貝塚は奥東京湾西部の海岸線に沿っていることが明らかになり、ムラの一角にできた貝塚ではなく、集落から離れた浜にできた貝塚であり、周辺に居住する人々が協業して貝の加工を行っていたとみられている。その規模は幅約40メートル、長さ1キロメートル〔南北100メートル、東西500メートル以上の範囲に、最大厚さ4.5メートル以上の貝層が広がっている。(岡村道雄「中里貝塚」/独立行政法人文化財研究所・奈良文化財研究所監修『日本の考古学 -ドイツで開催された「曙光の時代」展』小学館 2005年 65-66ページ)〕にも及ぶという巨大な貝塚である。カキ(マガキ)やハマグリが大半を占め、春先のカキと初夏のハマグリが交互に貝層を形成し、高さ約4.5メートルにもおよんで堆積している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中里貝塚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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