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中野ブロードウェイ(なかのブロードウェイ、Nakano Broadway、正式総称コープ・ブロードウェイ・センター〔『実業の世界』1965年5月号、実業之世界社、133頁。『週刊サンケイ』1966年10月3日号、サンケイ新聞出版局、18、20頁。『アパートのすべて』1964年8月20日、金剛出版、4、68、152頁。〕)は、東京都中野区中野五丁目にある複合ビルである。低層階はショッピングセンター、中・高層階は集合住宅となっている。 == 歴史 == === 開業 === 現在中野ブロードウェイのある敷地は、元々は木造家屋が密集する地域だった。中野駅前から続く商店街(現在の中野サンモール商店街)がそこで行き止まりになってしまっていたため、地元有志の発案により、ここをまとめて買収してビルを建て、一階に裏の早稲田通りに抜ける広い通路を貫通させようという計画が持ち上がった。「ブロードウェイ」という名称は、この「広い通路」に由来する。 しかし資金難でこの事業は頓挫し、開発業者の東京コープに引き継がれた〔平松剛「サブカルの魔窟 中野ブロードウェイ」『毎日新聞』夕刊、2012年2月21日。〕。なお東京コープ社長の宮田慶三郎は先に東京・表参道に完成した高級マンション「コープオリンピア」(渋谷区神宮前6)も手掛けている〔。 東京コープの半ば自転車操業ともいえる資金難、それに伴う極度の経済効率性重視の設計、地元商店街の反対、買収対象敷地に乃木希典ゆかりの土地が含まれて権利者が反対するなど、建設にはさまざまな困難が立ち塞がった。中野ブロードウェイの敷地の一部は、乃木希典が、自分の死後に妻の静子が生活に困らないようにと、あらかじめ買っていた土地である。ところが乃木は、明治天皇崩御後、その葬儀日の夜に、夫妻で自害し、この土地は相続等により親族の手に渡った。あまりに広いため3つに分筆され、親族はこのうちの1つに住むなど静かな生活を送っていた。親族は、かようにも大切な因縁の土地が売却され、経済活動に利用され、乃木の痕跡が何もなくなってしまうことを気にして、当初は反対していたようである。 これらの困難をひとつひとつ乗り越えて、1966年(昭和41年)、中野駅北口開発の一環として中野サンモール商店街に続くショッピングコンプレックス(商業住宅複合施設)として中野ブロードウェイは開業した。建設事業費は当時としては破格の60億円と、大変高額だった〔らんどまあく@東京 中野ブロードウェイ 「マイタウン東京」 asahi.com 『朝日新聞』 2011年1月27日掲載、2011年12月21日閲覧〕。この高額な建設費を早期に回収するため、設計者で建築家の馬場信行(馬場建築事務所)に対し、馬場によるモダニズム思想に基づいた当初提案・グランドデザインの大幅変更を命じた。 床面積の大幅増のためのこの変更により廊下等の共用スペースは最小限に抑えられ、メインストリート以外の廊下は自分の居場所がわからなくなるがごとく不自然に折れ曲がり、接客スペースや廊下からは外が見えず、エレベーターは数が少ない上にわかりにくい場所に追いやられ、階を稼ぐ代わりに天井高は低く抑えられ、エスカレーターは上りしかなく中途半端なところまでしか行かないといったように、目的達成の裏で設計思想やその背景にある利便性が犠牲となった。 なお東京コープ販売KKは、1960年(昭和35年)に渋谷区桜丘町に完成した高級マンションの渋谷コープ、1963年(昭和38年)に新宿区大京町に完成したデラックス・マンションであるエンパイア・コープ、そして1965年(昭和40年)には一括払いにもかかわらず完売した原宿駅前のコープ・オリンピアを相次いで成功させており、続くデラックス・マンションとして大規模な商業施設を備えた当ビルを1966年に完成させるが、1964年東京オリンピック後の不景気が災いして 完売まで時間を要し、そのためその後のコープ計画を断念している。 大規模不動産事業が黎明期にあったとはいえ、当時の東京コープ社長の宮田慶三郎は、中野ブロードウェイの建設と立ち上げで大いに苦労したことから、その後は一切の不動産事業から手を引いて東京コープを解散してしまった。その懲り具合は、宮田の自著『一瞬と永遠 建学の精神の基礎にあるもの』(明海大学企画広報課刊、1990)中の自身の経歴欄から、中野ブロードウェイを含んだ不動産事業に関する記述を一切排除していることからも伺われる。 なお、不動産事業をやめてからの宮田は学校経営事業に進出し、明海大学や朝日大学といった大学を設立した。日本で不動産学が学べる唯一の場所と言われる不動産学部が明海大学に設置されているのは、かような経歴を持つ宮田の意向によるものと言われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中野ブロードウェイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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