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志筑 忠雄(しづき ただお、宝暦10年(1760年) - 文化3年7月3日(1806年8月16日))は、江戸時代長崎の蘭学者、阿蘭陀稽古通詞(のち辞職)。 == 概要 == 天文、物理、地理誌、海外事情、オランダ語、オランダ文法学等の分野で著述を成した。 本姓中野氏、通称忠次郎、字季飛。名をはじめは盈長、後に忠雄とし、柳圃と号した。養父孫次郎の養子として阿蘭陀通詞志筑本家8代を継いだが 、生家の中野家がいかなる家だったのかについては不明な点が多い。志筑の経歴については長年、『長崎通詞由緒書』の情報をもとに、阿蘭陀通詞志筑家の養子となり、安永5年(1776年)には稽古通詞となったが、その翌年病身を理由に辞職し、阿蘭陀通詞で西洋天文学に精通していた本木良永に師事したと信じられてきた〔渡辺庫輔『阿蘭陀通詞志筑氏事略』、p. 31 - 35。〕。近年の研究成果によって、志筑は少なくとも天明2年(1782年)まで稽古通詞を務めていたことが究明された〔原田博二「阿蘭陀志筑家について」、p. 24 - 25。〕。また、天明6年(1786年)5月まで同職を務めていた可能性も指摘されている〔イサベル・田中・ファン・ダーレン「オランダ史料から見た長崎通詞 - 志筑家を中心に - 」、p. 32 - 34。〕。 生涯にわたって蘭書翻訳に熱中する一方で、多病であったようである。大槻玄幹(1785年 - 1837年)、杉田玄白、新宮凉亭(1787年 - 1854年)らの諸著述において、志筑は若くして病気を理由に阿蘭陀稽古通詞を辞し、隠居して人との交わりをできるだけ絶ち、およそ政治や現実問題とは無縁な生き方をしながら蘭書に没頭する人物として描かれている。 彼の著作は主に写本で伝わり、現在までに確認されているものは50点近くにのぼる〔鳥井裕美子「志筑忠雄の生涯と業績 - 今なぜ志筑忠雄なのか?」、および大島明秀『「鎖国」という言説 - ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史 - 』、p. 68 - 69、表3参照。〕。それらは、いつ成立したのか、いつ写されたのかが不明のものが多い。著作の半分近くは西洋天文・物理学関係の蘭書からの翻訳で、次に多いのがオランダ語・文法に関するもので約3割を占める。前二者に比べると数は多くないが、地理、海外事情に関する翻訳も認められる。その訳述の内容と豊富さから西洋科学に対する志筑の熱意が感じとられるが、一方でエンゲルベルト・ケンペル『日本誌』のオランダ語第二版(1733)の巻末附録の最終章を訳出した写本「鎖国論」(1801)に志筑が付した注釈には排外的な側面も見られ、矛盾葛藤する両面を見せている。 ただし、現在までに発掘されている史料が乏しいことから、志筑忠雄についてこれ以上追究することは難しい状況にある〔「概要」の記述は、全て大島明秀『「鎖国」という言説 - ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史 - 』に拠って記された。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「志筑忠雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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