|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 中 : [なか] 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among ・ 野 : [の] 【名詞】 1. field ・ 一 : [いち] 1. (num) one
中野 浩一(なかの こういち、ラテン文字表記:Koichi Nakano。1955年11月14日 - )は元競輪選手・自転車競技選手。競輪選手登録番号8959。現在は公益財団法人JKA特別顧問、競輪解説者、日刊スポーツ競輪担当評論家、公益財団法人日本自転車競技連盟理事(元副会長)、スポーツコメンテーター・タレント(浅井企画所属)。 2006年春に競輪選手出身者では初の紫綬褒章受章〔『中野浩一氏紫綬褒章受章を祝う会』盛大に催される 競輪選手出身者として初の受章! , (2006年9月20日号), Web週間レース〕〔シクリスムエコー No.128 2006年04月号 , 日本自転車競技連盟, 16ページ〕。血液型・B型 身長:172cm 体重:85kg〔中野浩一 , 浅井企画〕。夫人は歌手の NAOMI(小久保尚美)。 世界選手権個人スプリント10連覇、特別競輪12勝(GP1勝、GI11勝)、賞金王6回(歴代最多)を達成している。 == 経歴 == 福岡県久留米市出身〔ビジネス哲学研究会『ビジネスに活かす一流選手の言葉』〕。 福岡県立八女工業高等学校では陸上競技を行っており、高校2年のとき、1972年に開催された山形インターハイ・400メートルリレー走の第3走者として優勝に貢献。高校3年春に右太ももの肉離れで陸上競技での大学進学を断念。高校卒業後、プロ野球選手から転身した尾崎将司に倣ってプロゴルファーになる希望を持っていたが、当時競輪選手だった父・光仁から、一度トラックレーサーに乗ってみないかと奬められ、正味3ヶ月程度の練習の末、日本競輪学校第35期生試験に合格した。 1975年に日本競輪学校を卒業。、「35期の三羽烏」と謳われる〔<還暦攻めの銀輪 大津在住の競輪選手 井狩さん , 2012/04/09 11:41, 京都新聞〕。同年5月3日に久留米競輪場でデビュー。その後、デビュー戦を含めて18戦無敗の記録を作った。また、「九州のハヤブサ」というニックネームが付けられた〔柿原恒介 あとぴナビ/スペシャルインタビュー , あとぴナビ〕。 。その象徴が宮杯での岩崎誠一の過度の牽制であり、競輪祭での吉井秀仁の発言(決勝戦終了後、中野に対し、「ザマーミロ、あー気持ちいい」と言った〔月刊競輪2004年8月号 「今だから言えることVol.4 吉井秀仁」 〕)だった。。1978年には競輪祭を制し、特別競輪10回目の出場にして初めての優勝を飾った。そして1980年に、日本のプロスポーツ選手として初めて年間賞金獲得額1億円突破を達成した〔。その後、1981年の日本選手権競輪を制し、高倉登以来となる史上2人目の特別競輪3連覇を達成。1983年には史上最多の6回目の賞金王の座に就いた他、1985年に開始されたKEIRINグランプリを制し、同レースの初代優勝者となった。 とりわけ最盛期ともいうべき、1970年代後半〜80年代前半にかけての中野の強さは驚異的であり、特に「浩一ダッシュ」と称された捲りは非常に鋭く〔、400mバンクを1周程度しか逃げ切れる力がない先行選手だと簡単に捲られていた。(フラワーライン・滝澤正光・山口国男の項を参照)。なお、競技で使ったトラックレーサーはナガサワレーシングサイクル(長澤義明)の特製専用車〔“黄金比”の骨格 銀輪支える : 地域 , 2013年08月03日, 読売新聞〕。 一方、1976年に初めて世界自転車選手権に参戦し、プロ・スクラッチ(現 スプリント)で4位に入った。。その結果、準決勝で当時同種目連覇中だったジョン=ミカエル・ニコルソンを破ると、決勝では前年の3位決定戦でストレート負けを喫した菅田を逆にストレートで下し、日本人選手として初めて同大会の優勝者となった。それ以降は毎年この種目で優勝し続け、1986年までに10連覇を達成。 (詳しくはルッツ・ヘスリッヒ及び長義和の項を参照)。ただ中野は競輪主催団体の方針による後援が受けられたからとはいえ、世界規模のスポーツ大会において日本人が毎年出場していた例そのものが少なかった頃の活躍だっただけに、現在海外で活躍し続ける日本人スポーツ選手の先駆者となった、 国内でも常にトップクラスで活躍し続け、1983年競輪祭で滝澤正光を捲って優勝したのを最後に、異例の長きに渡った競輪競走第一人者の座は降りたが、1988年には通算賞金獲得額10億円を突破〔年間総売上額、5兆7500億円! 公営ギャンブル巻き返す , 1987/12/25 朝日新聞夕刊〕。しかし、1992年に特別競輪の中で最後まで優勝できなかった高松宮杯競輪(現在の高松宮記念杯競輪)の決勝戦2着を最後に引退した。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中野浩一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|