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中野碩翁 : ミニ英和和英辞書
中野碩翁[なかの]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [の]
 【名詞】 1. field 
: [おきな]
 【名詞】 1. old man 2. venerable

中野碩翁 ( リダイレクト:中野清茂 ) : ウィキペディア日本語版
中野清茂[なかの きよしげ]
中野 清茂(なかの きよしげ、明和2年(1765年) - 天保13年5月12日1842年6月20日))は、江戸時代後期の9000石旗本。播磨守。別名・中野碩翁中野 石翁、なかの せきおう)。通称、定之助。父は300俵取りの徒頭・中野清備。正室は矢部定賢の娘。後妻に宮原義潔の娘を迎えたが、離婚している。また川田貞興の娘も妻とした。
鋭い頭脳を有し、風流と才知に通じていたとされる。幕府では御小納戸頭取、新番頭格を勤め、十一代将軍徳川家斉の側近中の側近であった。また、家斉の愛妾・お美代の方(専行院)の養父でもある。新番頭格を最後に勤めを退いて隠居剃髪したのちは碩翁と称した。隠居後も大御所家斉の話し相手と随時、江戸城に登城する資格を有していた。このため諸大名や幕臣、商人から莫大な賄賂が集まり、清茂の周旋を取り付ければ、願いごとは半ば叶ったも同然とまでいわれた。本所向島に豪華な屋敷を持ち、贅沢な生活をしていたが、1841年に家斉が死去し、水野忠邦天保の改革を開始すると、登城を禁止されたうえ、加増地没収・別邸取り壊しの処分を受け、向島に逼塞し、その翌年に死去した。戒名は高運院殿石翁日勇大居士。
漢学者・五弓久文の『文恭公実録』によると、当時その豪奢な生活ぶりから、「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人に数えることわざが作られたという(残り二人は徳川治済島津重豪。一方、「天下の憂に先んじて憂う」という正反対の人物として松平定信が挙げられている)〔辻達也『一橋徳川家文書摘録考註百選』(2006年、続群書類従完成会)4頁〕。
==経歴==
※日付=旧暦
*1783年天明3年)9月27日、小納戸に就任。時に定之助を称す。
 *12月18日、布衣を着用することを許される。
*1802年享和2年)4月7日(または4月15日)、小姓に異動。在職中、従五位下播磨守に叙任。
*1806年文化3年)6月、小姓頭取に異動。
*1810年(文化7年)12月4日、小納戸頭取に異動。
*1822年(文政5年)12月22日、500石を加増。
*1827年(文政10年)10月8日、新番頭格式奥勤に異動。
*1830年(文政13年)11月15日、隠居。但し、新番頭格式奥勤留任。
*1841年天保12年)7月、病気により辞職願いのところ、登城を御免。
(参考文献)柳営補任

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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