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中央大学附属中学校・高等学校(ちゅうおうだいがくふぞくちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都小金井市に所在し、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等学校。高等学校において、中学校から入学した内部進学の生徒と高等学校から入学した外部進学の生徒との間では、第2学年から混合してクラスを編成する併設型中高一貫校〔中央大学附属中学校(中学受験スタディ) の「基本情報」による。〕。学校法人中央大学が設置する附属学校。生徒数は約1,500名。略称は「中附」(ちゅうふ)。 中央大学の附属校のうちで最も生徒数が多い。旧制目白中学校を母体としている。 == 沿革 == * 1909年2月22日 - 東京府豊多摩郡落合村(現・新宿区下落合)の近衛篤麿公爵家屋敷地内に、東亜同文会が中国人留学生受け入れ施設である東京同文書院に併設教育機関として「私立中学校設立許可願」を文部省に提出。設立者・細川護成および柏原文太郎。 * 1926年10月 - 東京府北多摩郡上練馬村(現・練馬区高松町)に移転 * 1935年4月10日 - 杉並区へ移転、翌11日には杉並中学校に改称が認可される。初代校長に岡本隆冶就任。定員500名。 * 1948年4月 - 学制改革により、新制の杉並中学校・杉並高等学校へ改組。 * 1952年5月 - 杉並中学校・杉並高等学校の運営法人である学校法人杉並高等学校と学校法人中央大学の合併が認可、中学校廃止、校名を中央大学杉並高等学校と改称。 * 1963年1月 - 中央大学杉並高等学校を母体として中央大学附属高等学校の設立が認可される。 * 1963年3月 - 小金井市貫井北町へ移転。跡地には新設校として中央大学杉並高等学校を設置。 * 1963年4月 - 中央大学附属高等学校と改称。初代校長 岩本春市就任。 * 1966年4月 - 第2代校長 金子文六就任。 * 1968年2月4日 - 中大文化連盟サークルおよび社会主義学生同盟を中心とする700名の中央大学生により早朝から校内にピケが張られて中央大学への内部進学試験が阻止され、「学内進学試験」はこの年以降廃止されることになる。 * 1969年5月29日 - 第3代校長に伊津野正就任。 * 1969年10月16日 - 「中大附属反戦会議」が生徒会中央委員会にビラ配布の許可申請を求め、同時に「生徒心得第9条」の廃止と「生徒指導部解体」運動を展開。 * 1969年10月27日 - 「反戦系」の生徒が午前3時から校舎にバリケードを築き学校を占拠。学校当局は警察を導入、多くの生徒は逃走できたが3名が補導の形で検挙される。 * 1970年6月23日 - 生徒会有志が中心となって組織された約200名の中央大学附属高等学校生徒の「反安保デモ」が高等学校から中央線武蔵小金井駅まで行われる。この時期、職員会議も生徒の諸活動をその自主性に委ねるということに決定。 * 1970年10月15日 - 生徒総会において従来の校則を撤廃し自治綱領として現行「学校生活」を制定。自由化の基礎が固まる。 * 1971年7月20日 - 学内の自由化達成 制服・校則全廃。国歌斉唱国旗掲揚等の形式的式典の廃止。伊津野正校長が同日の終業式で自由化決議承認を全生徒に通告。 * 1972年4月1日 - 伊津野正校長が教員のための研究条件の向上と民主化制度「高等学校専任教員研修日実施要綱」を発効させる。また1学年定員550名を500名に削減し教育条件を改善。 * 1973年10月15日 - 伊津野正校長辞任。後任に同年10月22日小松春雄教授が第4代校長として就任。 * 1974年12月16日 - 冨田彦一教頭が第5代校長として校長に任命。 * 1975年11月 - 第二体育館竣工。 * 1978年3月 - 図書館竣工。 * 1982年2月1日 - 中央大学附属高等学校教職員組合が教職員実子についての特別入学、運動部についての特別入学、およびその他縁故者子弟の特別入学の全廃を冨田彦市校長に要望書を提出し、これを契機に「特別入学」を全廃、入試の公正を実現。 * 2001年4月 - 男女共学・週五日制実施。 * 2003年3月 - 1号館改築工事竣工。 * 2003年4月 - 第10代校長金子雄司就任。 * 2010年4月 - 附属中学校を開設。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中央大学附属中学校・高等学校」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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