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中院家(なかのいんけ)は、大臣家の家格を有する公家。村上源氏久我家支流。内大臣源通親(土御門通親)の五男通方を家祖とする。家名は、嫡流久我家の4代雅定が中院町(六条室町)に住んで中院右大臣と称したことに興るが、狭義にはその曾孫通方から分かれた後を中院家と呼ぶ。なお、同じく村上源氏久我流の六条家から分かれた別系の中院家も存在する。 == 概要 == 家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・有職故実。江戸時代の家禄は初め300石、後に加増されて500石。内々。明治維新後は伯爵。 源通親の子は何れも高位高官に昇ったが、その中で通方が別流を興したのは、承明門院の同母弟に当たるからであろう。通方の子通成は正二位・内大臣、次いで通頼が従一位・准大臣に至り、以後これを極官とする大臣家となった。南北朝時代の通冬は従一位・大納言で終わるも、源氏長者宣下を蒙って嫡流久我家に匹敵する地位を得た他、日記『中院一品記』の記主として著名である。室町時代の通秀は日記『十輪院内府記』の記主であり、歌人としても知られる。 一方で、中世後期の公家社会は経済的に苦しく、特に大臣家である中院家はその家格を維持するために苦労した。応永25年(1410年)に治天である後小松上皇から春日祭の上卿を命じられた通守は経済的理由で上卿としての準備ができないことを述べて辞退したところ、院が実施を厳命したため、朝廷に奉仕できず家名を辱めることを恐れた通守は2月10日に持仏堂にて小刀で自らの喉を切って自害するという事件を起こしている(『看聞日記』応永25年3月8日条)〔井原今朝男 『室町期廷臣社会論』 塙書房、2014年、ISBN 9784827312669、P178-179〕。戦国時代になると、家領のある加賀にて一向一揆が頻発すると、その年貢抑留に対して直務で対処すべく、通世・通胤・通為の3代はたびたび同国へ下向し、通世と通為はついに在国のまま没した。 通為の子通勝は天正8年(1580年)正三位・権中納言のまま逐電するも、細川幽斎に学んで源氏学を構築した。通勝の業績を踏まえ、近世には多くの歌人を輩出している。子の通村は書家としても名高く、通茂・通躬父子は霊元院歌壇の中心となるが、特に通躬はその功績によって従一位・右大臣に昇った。また、通村・通茂・通躬は武家伝奏として朝廷の運営にも関わっている。幕末の通富は儲君祐宮の三卿となり、明治新政府では参与に補され、明治17年(1884年)伯爵を授けられた。 菩提所は廬山寺。現在、中院家の邸宅跡には、護王神社(京都市上京区)が鎮座している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中院家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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