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後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう、正嘉2年(1258年) - 没年不詳)は鎌倉時代中期の女性。『とはずがたり』の作者とされている。没年は嘉元4年(1306年)以後とされる。 == 人物略歴 == 父は中院大納言源雅忠、母は大納言典侍(四条隆親の娘近子)。父方の叔母に歌人の式乾門院御匣(源通光女)がいる。幼いころは「あかこ」(「吾が子」という意か)と呼ばれていた。後深草院に仕える女房であり愛人〔正式な后妃ではなく、いわゆる召人である。〕。母大納言典侍は幼少だった後深草天皇に「新枕」をさずける役であったが、何人かの公卿に「ぬしづかれて」最終的に雅忠の妻となった〔吉田(1972)pp.157-161〕。母は二条を生んだ翌年(1259年)に亡くなり、二条は後深草院御所で育った。 父も二条が14歳のときに亡くなった。孤独の身となった二条は、後深草院の寵愛を受けながらも〔吉田精一は、後深草院の二条に対する愛情には父性愛のようなものが含まれていたのではないかとしている。吉田(1972)〕「雪の曙」(西園寺実兼とされる)、「有明の月」(仁和寺御室性助入道親王・開田准后法助の両説あり)、亀山院らとの乱脈きわまる関係を「とはずがたり」の前半三巻で赤裸々に綴った。 26歳のとき、後深草院の中宮である東二条院の排斥にあい一旦御所を退くも、その2年後大宮院(後嵯峨中宮、後深草・亀山両天皇の母)の女房として再び出仕、外祖父の姉にあたる北山准后(西園寺実氏室で大宮院・東二条院の生母となった四条貞子)の九十賀という盛儀の場面に立ち会う。その後出家し、修行の旅に出て、西行に倣って東国西国の各地の寺社を詣でた。鎌倉に下って御家人衆と贈答を交わし、また石清水八幡宮で後深草院と再会した。旅先での見聞と出家後の修行生活を綴ったのが「とはずがたり」の後半二巻である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「後深草院二条」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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