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中馬 重方(ちゅうまん しげかた)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣(薩摩藩士)。桓武平氏伊地知氏の一族。また、島津家中で数多くの逸話を遺した人物でもある。 == 生涯 == 永禄9年(1566年)、中馬大蔵の子として誕生。 薩摩国市来郷地頭・比志島国貞に仕え、天正8年(1580年)に肥後国矢崎城攻めにて初陣。以後、天正15年(1587年)1月26日の豊後国下之城攻めに参加など、島津氏の肥後国侵攻や大友氏との戦に参加した。しかし、国貞との関係が悪化し、知行と屋敷を没収されて蒲生(現在の姶良市)に蟄居させられるが、豊臣氏による文禄の役が起こると、蟄居先より呼び戻され役に参加した。慶長3年(1598年)、慶長の役に再び参加し武功をあげる。このため島津義久、義弘より、通称を「与八郎」から、父と同じ「大蔵」を称すように命じられる。 慶長4年(1599年)、薩摩出水郷が豊臣氏直轄地〔対馬府中藩主の宗義智が統治していた。〕から島津氏に返還された際、境目警備のため慶長5年(1600年)に出水郷(現在の出水市、阿久根市脇本、長島町にいたる地域)に移り、出水郷西目村瀬之浦(現在の阿久根市脇本)に居住。当時、肥後国の加藤清正との関係が悪化していた上、出水郷には豊臣秀吉に改易された薩州島津家の家臣が浪人となって在住していたため、その備えとして配置される。肥後国との国境最前線のため出水郷には有能な武士が配置され、ほかの郷と比べて出水郷士の知行は厚遇された。 同年関ヶ原の戦いに従軍し、伊勢路退却の御供をする。そのとき、島津義弘の馬印を捨てさせた。この功績により50石を賞賜される。 元和6年(1620年)の「出水郷衆中高帳」(鹿児島県立図書館蔵)に「西目衆中 75石 中馬大蔵少輔」とある。 寛永12年(1635年)12月18日に死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中馬重方」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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