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丸ノ内八重洲ビルヂング(まるのうちやえすビルヂング)は、かつて日本の東京都千代田区丸の内二丁目6番2号に存在した三菱地所の貸事務所建築。 == 沿革 == 本建物が所在した東京府東京市麹町区八重洲町一丁目1番地(現・東京都千代田区丸の内二丁目6番1号)の地は、かつて三菱の建築を担当する部門であった「丸ノ内建築所」の事務所として、1891年(明治24年)に建てられた建物跡に設けられた「三菱運動倶楽部」の諸施設が所在していた場所にあり、同施設も一部が本建物を建設するため1925年(大正14年)に取り壊され、跡地に本建物の建設工事が1926年(大正15年)に起工され、1928年(昭和3年)に竣工した〔『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史』 上巻308-311頁〕。 1937年(昭和12年)に三菱地所株式会社が設立された後は、三菱合資会社所有のもと三菱地所が管理を行っていたものの、1945年(昭和20年)3月に三菱合資会社本社より、敷地・建物が当時の350万円で現物出資として三菱地所に譲渡された〔。 終戦後は1946年(昭和21年)4月に占領軍に接収され、1956年(昭和31年)2月3日に返還されるまで米空軍宿舎「八重洲ホテル」として使用されていた〔『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史』 上巻494頁、下巻62頁〕。 竣工当初の名称は「八重洲ビルヂング」であったが、1962年(昭和37年)6月1日に「丸ノ内八重洲ビルヂング」と改称された〔『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史』 下巻118-119頁〕。改称の理由について、三菱地所社史〔によれば建物が八重洲側にあるように誤解されるという苦情がテナントよりあったためだとしている。 2004年、三菱地所は「丸の内再構築」の第2ステージ第1弾として、本建物を含む3区画を取り壊し、跡地に丸の内パークビルディングおよび、かつて文化庁が重要文化財指定を検討する中、三菱地所が抜き打ちに解体した〔三菱旧一号館解体作業の即時中止と保存に関する要望書 日本建築学会、1968年3月26日付。〕「東9号館」(旧称「第1号館」)を「三菱一号館」としてレプリカとして再建する「三菱商事ビル・古河ビル・丸ノ内八重洲ビル建替計画」〔丸の内再構築が 「拡がり」「深まる」/「第2ステージ」へ「三菱商事ビル・古河ビル・丸ノ内八重洲ビル建替計画」の着手決定 三菱地所ニュースリリース 2004年3月30日付、2011年3月29日閲覧〕を発表。 同計画の発表を受けた日本建築家協会は昭和初期の歴史的建造物である本建物を保存するよう保存要望書〔「丸の内八重洲ビル」の保存活用に関する要望書 日本建築家協会 2005年10月11日付、2011年3月29日閲覧〕を三菱地所に提出したものの、三菱地所は聞き入れず2006年7月に解体された。再現されたレプリカの三菱一号館は「三菱一号館美術館」として利用されている。また丸の内パークビルディングの外壁には、本建物の基壇部・尖塔部を連想させる造形がなされており、一部の石材も再利用されている〔DesignFiles (丸の内パークビルディング・三菱一号館 概略) | 旭硝子のGlass-Plaza Pro 2011年5月17日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丸ノ内八重洲ビルヂング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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