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丹波 健二(たんば けんじ、1965年5月20日 - )は、神奈川県川崎市高津区出身の元プロ野球選手(内野手)。 == 来歴・人物 == 調布リトルに在籍し、同期には武田一浩らがいた。 1981年に日体荏原高に入学。甲子園を目指すも、2年生の時は東東京大会の準々決勝で、投手に今野隆裕(後に中日ドラゴンズ)を擁しながらも城西大附高に7-1のコールド勝ち寸前から7-10へのまさかの逆転負けでベスト8止まり。3年生の時も、東東京大会準々決勝で、山口重幸(後に阪神)、森範行(後に日本ハム)ら1学年下を中心とする岩倉高に逆転負けを喫した。岩倉高は、翌年の春の選抜で初出場ながら山口、森の活躍により桑田、清原を擁したPL学園を破り全国制覇をした。 1984年、高校を卒業後、社会人・東芝に入社。当初は非力なバッターであったが、徐々に力をつけていき、競争の激しい東芝内野陣に食い込んでいくようになった。 1991年の第62回都市対抗野球大会では大会記録となる個人大会9本塁打、1試合3本塁打(準決勝、対住友金属戦。大会記録タイ)の記録を打ちたてて東芝は優勝に導いた。結局、5試合で打率.695・9本塁打・22打点・OPS2.795の成績を残して大会のMVP(橋戸賞)を受賞している。 完成されたスラッガーの登場にプロ野球スカウトは色めき立ったが、獲得に難色を示す球団もあった。というのも、当時の社会人野球は金属バットを使用しており、5試合9本塁打を額面どおり受け取れないと見る向きがあるほか、極端なアッパースイングの打撃フォームがプロで通用するかどうか不安視されたり、丹波が東芝で経験した下積みが長かったために第62回都市対抗野球出場時に既に26歳であったため、新人として獲得するにはリスクが高いと見る向きもあった。 しかし同年ドラフト会議でロッテが3位指名し、丹波も入団を受諾。ロッテに日本人大砲の誕生かと期待が膨らんだ。「東芝→ロッテのドラフト3位」というのは落合博満と同じ(但し落合は「東芝府中」出身)ということもファンに期待を持たせる要因となった。 ところがやはり不安が的中し、(主に木製バットを使用する大学野球を経験せず)長い間金属バットに慣れ親しんだ丹波は木製バットとの違いに苦しみ、一軍でこれといった成績を残せない。結局5シーズン在籍したが本塁打はわずか1本しか打てずに引退。ちなみに、その1本は都市対抗野球大会の会場である東京ドームで、日本ハムの芝草宇宙から打った。 現在は一般の企業に転職している。また、リトルリーグ八千代中央チームの監督も務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丹波健二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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