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丹羽 氏次(にわ うじつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。氏次系丹羽家初代。 == 生涯 == 天文19年(1550年)、丹羽氏勝の長男として尾張国岩崎に生まれる。父の後を継いで織田信長に仕えた。天正8年(1580年)に父・氏勝が信長の勘気を被って追放されているが、氏次にはその影響は及ばなかったようで、以後、織田信忠の家臣として仕え、天正10年(1582年)の甲州征伐では木曾義昌・織田長益らとともに信忠軍団の一員として武田領内へ侵攻している。本能寺の変で信長が死去した後はその次男の信雄に仕えて各地で武功を挙げたが、信雄と対立してその勘気を被ったため、翌天正11年(1583年)に徳川家康の家臣となった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは岩崎城を弟の氏重に守らせ、自身は家康に従って小牧に赴いて武功を挙げた。しかしこのとき、池田恒興と森長可の猛攻を受けて氏重は討ち死にしている(岩崎城の戦い)。 その後、家康の取り成しで再び信雄に仕え、伊勢国内に7千石を与えられた。しかし小田原征伐後に信雄が改易されると、再び家康の元で仕えようと豊臣秀吉に懇願したが、秀吉の命により三好秀次に仕えることとなる。このとき、長男の氏資を家康に仕えさせている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いが始まると、氏次は東軍に属し、家康より、尾張・三河を結ぶ重要拠点、岩崎城の守備固めを命じられる。また家康の命により西軍石田三成に味方する岩村城主田丸氏の攻撃に備えるため妻木頼忠の妻木城の防備を強化する工事のため数百人の人夫を送った。その後、関ヶ原本戦にも参加した功により、三河伊保に1万石を与えられ、その初代藩主となった。 翌慶長6年(1601年)3月19日に死去。享年52(53との異説もある)。跡を次男の氏信が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丹羽氏次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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