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丹野 章(たんの あきら、1925年8月8日〔no.607 2013年8月11日 ”写真家・丹野章さんの米寿を祝う会”が多彩な人びとが集って盛会におこなわれた~!☆ 8月9日は68回目のナガサキ忌・・・・・。 合掌 小松健一オフィシャルサイト〕 - 2015年8月5日)は日本の写真家。東京都生まれ。 日本大学芸術科写真学科を戦後1期生として卒業後、フリーカメラマンが少数の時代にフリーランスとして活動を始める。舞台写真の分野で活躍した後、新感覚の写真のグループに参加。東京都写真美術館、山口県立美術館、日本大学芸術学部、東京工芸大学ほかに作品がコレクションとして収蔵されている。 写真の著作権の保護期間問題に関わり、日本写真著作権協会(JPCA)の創設に貢献。1970年、著作権法の改正に関して、日本写真家協会を代表し、渡辺義雄とともに、第63回通常国会の衆参両院の関係委員会で意見を述べた〔渡辺が第63回通常国会衆議院文教委員会著作権法案審査小委員会(1970年3月27日) で発言したのに続いて、丹野は第63回通常国会参議院文教委員会(1970年4月23日) において発言した。〕。これを受けて国会議員の合意形成がすすみ、著作権法が改正され、写真の著作権の保護期間が公表後50年に延長された。1999年、著作権法100年特別功労者として文部大臣から表彰〔日本写真家協会の沿革 〕。 日本写真家協会常務理事、文化庁著作権審議会委員、日本リアリズム写真集団理事長など歴任。日本写真家ユニオン理事長、日本写真家協会名誉会員、日本舞台写真家協会名誉会員。 2015年8月5日、急性肺炎のため死去〔写真家の丹野章さん死去 写真家集団「VIVO」結成 朝日新聞 2015年8月7日閲覧〕。89歳没。 ==経歴== 1949年、日本大学芸術科写真学科卒業。1951年からフリー。 1957年、10人の眼展に1953年から数年間にわたって追い続けた〔【写眼】2009年5月16日 産経ニュース〕サーカスをテーマにした作品を発表。 1959年、佐藤明、奈良原一高、東松照明、川田喜久治、細江英公とグループvivo結成〔佐藤明プロフィール 新潮社サイト内〕。1961年解散。 その後、三井三池争議、安保闘争などの当時の世相を背景にして、炭坑をはじめ、軍事基地、沖縄、広島などを題材にした作品を発表〔『撮る自由—肖像権の霧を晴らす』掲載プロフィール 本の泉社サイト内〕。 1971年5月、日本写真著作権協会(JPCA)創立に関わる。 1972年から1992年にかけて「壬生狂言」を撮影〔写真展「丹野章の戦後」ホームページ掲載略歴 〕。 1979年から1983年には「日本の風土」シリーズを撮影〔前掲略歴 〕。 1988年日本リアリズム写真集団副理事長、翌1989年同集団理事長に就任〔日本リアリズム写真集団概要 〕。2001年まで。 1993年、香港で開かれた「アジア写真著作権会議」に日本写真家協会から派遣される〔日本写真家協会の沿革 〕。 2001年、任意団体として日本写真家ユニオンが発足し、代表理事を務める。 2009年5月、キヤノンギャラリーSで写真展「丹野章の戦後」開催〔展覧会ホームページ 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丹野章」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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