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乃木 傳庵(のぎ でんあん 寛永15年(1638年)- 享保5年2月5日(1720年3月13日)は江戸時代の武士。長門長府藩の江戸定府の藩主侍医。後に乃木希典を輩出する長府藩士家の乃木氏祖。 == 経歴 == 寛永15年(1638年)、乃木冬継の次男として生まれる。母は伊予松山藩藩士川手十郎左衛門の娘(冬継の後妻)。父冬継は毛利秀元に仕えていたが、故あって浪人していた。延宝6年(1678年)2月24日、父冬継が死去する。 天和元年(1681年)、毛利綱広の七女幸姫の年寄格の女中であった玉木〔本名は染女。京都賀茂の西村図書の娘。「玉木」は幸姫の年寄格の女中として称した名〕との間に長男の久太郎が生まれる。この縁もあって天和2年(1682年)4月22日、平野丹波守の取り成しで長府藩主の毛利綱元に江戸定府の藩主侍医として仕官し、改めて長府藩士となる。仕官時、17人扶持で月並30人扶持金30両を割り当てられる。最終的な石高は300石であった。なお妻の玉木は元禄2年(1689年)に死去したために、後に後妻〔実名不詳、享保11年(1726年)9月6日死去。法名は雲松院華森永芳妙厳大姉〕を迎える。 元禄15年(1702年)、長男の久太郎春政が長州藩の毛利吉広に召し出されて長州藩士となり、母染女の勲功で分立してかつて母が名乗っていた「玉木」を姓として玉木氏を称する。これにより、跡継ぎがいなくなったため甥(打它寿庵の三男)で娘婿の随友を養子とした。 宝永2年1月17日(1705年)、春政が江戸で死去。また、正徳3年(1713年)、異母兄で伊勢国津藩藩士であった殷政〔足軽頭。石高は25石5人扶持。母は冬継前妻の宇津橋主計の姉〕が、正徳5年(1715年)に同母弟の打它寿庵〔友永氏を相続後、宝永2年に「打它」と改姓。対馬府中藩藩士。石高70石で馬廻。〕が死去している。享保5年(1720年)2月5日死去。享年83。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「乃木傳庵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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