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久保 之英(くぼ ゆきひで〔なお、当時の慣習上、藩主及びその家族の実名の字及び訓読みを避ける傾向があり、島津重豪が「しげひで」と称してからその生存中は「ゆきひで」とは読まなかった可能性が高い。しかし代わりに何と読んでいたかは資料がないので不明。このため「ゆきひで」と便宜的に読むのが一般的〕、、享保15年(1730年) - ?)は、江戸時代後期の薩摩藩城下士。通称は七兵衛。諱は之英。本姓は紀氏。著作に「久保七兵衛紀之英」と本姓と諱を含めて署名しているためか、「久保紀之」「久保紀之英」と表記している図書があるが誤りである。示現流の高弟であり、示現流の術技と歴代宗家高弟の事績を記した「示現流聞書喫緊録」等、著作多数。家格小番。宝暦6年(1756年)の久保七兵衛家の石高は84石。「三州御治世要覧 巻37」によると東郷実昉や大山貞政の親族と思われる大山後角右衛門〔当然ながら幕末の太刀流師範の大山後角右衛門とは別人〕、山本権兵衛の親族である山本五郎左衛門、奈良原喜左衛門先祖の奈良原助左衛門と同じ4番与小番に所属。 == 出自について == 家祖久保行久は、島津義久軍談役。その子、久保行経は朝鮮牧史城攻めで戦死。養子で且つ実弟の久保行政は島津忠恒の養育者。その子、久保之盛は七兵衛尉を称し、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いに参加。之盛の子、久保之昌(平内左衛門)は島津光久の儒学者。 之昌の後は、之昭、之春、之直と続き、之英は9代目にあたる〔「日新斎忠良公伊呂波御歌 全」参照〕。 代々示現流を学んでいたようであり〔曽祖父の久保之昭は東郷重利の高弟だった。〕、之英も東郷実昉に入門したり東郷位照に段位を授かったりしているが、東郷家の不振のためか、実際には薬丸家に学んでいたようである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久保之英」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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