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久保 天随(くぼ てんずい、1875年(明治8年)7月 - 1934年(昭和9年)6月2日)は日本の中国文学者。本名は久保得二、別号は兜城。台北帝国大学教授などを務め、漢詩の詩作も行なった。息子は物理学者の久保亮五。 == 略歴 == 1875年7月、高遠藩士だった父・譲次の息子として東京市下谷区(現・東京都台東区)徒歩町で生まれる。旧藩主・内藤頼直の命によって天随は母方の久保氏を継ぐこととなった。18歳頃から漢詩を作り、1899年に東京帝国大学漢文科を卒業した。卒業後は「帝国文学」などに評論、随筆などを投稿した。また、漢籍の評釈や漢詩の訳注も行なっている。 長くこのような生活が続いたが、1915年に大礼記録編纂委員会の嘱託となった。この会は内閣文庫の階上に設けられたため、文庫の蔵書を閲覧する機会に恵まれた。これをもとに1917年から漢詩専門誌で西廂記に関する連載を持ち、1920年には宮内省図書寮の編集官となった。1924年の夏に満州を旅行して詩集を執筆し、翌年には「西廂記の研究」で学位を申請、1927年11月7日に文学博士となった。また、同年4月から随鴎吟社の主事を務めている。 1928年に台北帝国大学が設立されると、翌年4月11日にその教授に就任した。文政学部東洋文学科で中国文学講座を担当し、中国文学史などを教えた。また、澎湖諸島や琉球を旅して紀行文を書いている。1934年6月2日、病臥中に近くで落雷があり、衝撃で脳溢血を起こして59歳で逝去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久保天随」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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