|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 保 : [ほ] 1. (n,vs) guarantee ・ 寺 : [てら] 【名詞】 1. temple ・ 生 : [せい, なま] 1. (adj-na,n,adj-no) (1) draft (beer) 2. draught 3. (2) raw 4. unprocessed
久保寺 生郎(くぼでら いくろう〔、1913年 - )は、日本の映画プロデューサーである。大映東京撮影所、ついで大映京都撮影所でキャリアを積み、大映倒産後は勝新太郎の勝プロダクションで、テレビ映画を中心に活動した。 == 人物・来歴 == 1913年(大正2年)に生まれる。 第二次世界大戦後の大映東京撮影所企画部に所属し、1947年(昭和22年)に水野洽監督、小崎政房脚本の現代劇『東京の夜』で企画者として初めてクレジットされる。以降、東京時代の森一生作品や鈴木重吉、野村浩将、清水宏、木村恵吾らヴェテラン監督の作品を企画し、原田治夫ら助監督を監督デビューさせた。 1961年(昭和36年)、大映京都撮影所に異動、第1作は同年、土井茂監督の『おてもやん』であった。京都では、森一生、田中徳三らを多く起用し、井上芳夫の現代劇を東京撮影所で手がけた。 1962年(昭和37年)、清水宏監督の勧めで子母澤寛の歴史随筆集『ふところ手帖』に掲載された原稿用紙にして10数枚の短篇小説『座頭市物語』を企画にし、当時の企画部長・鈴木晰成は、当時の社長・永田雅一を説得した〔「清水宏をめぐる3人の監督 」、木全公彦、映画の國、2009年10月9日閲覧。〕。こうして勝新太郎の生涯の当たり役となった「座頭市」が生まれた。 1971年(昭和46年)11月29日、大映が倒産すると、勝プロダクションに招かれ、プロデューサーとして活動する。勝新太郎の生涯3作の劇場用映画監督作のうちの2作目『新座頭市物語 折れた杖』を1972年(昭和47年)にプロデュースしている。同年、長谷川伸シリーズ『一本刀土俵入り』でテレビ映画に進出、1980年(昭和55年)まで、勝新太郎のテレビ映画での演出作品『痛快!河内山宗俊』(1975年 - 1976年)、『夫婦旅日記 さらば浪人』(1976年)、『警視-K』(1980年)をプロデュースした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久保寺生郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|