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久保 康生(くぼ やすお、1958年4月8日 - )は、1970年代後半から1990年代後半にかけて活躍した元プロ野球選手(投手)。現役引退後は、大阪近鉄バファローズや阪神タイガースで投手コーチを務めている。 == 経歴 == 福岡県飯塚市生まれ。柳川商業高等学校では2年生の時、春の選抜にエース加倉一馬の控え投手として出場。1回戦で堀越高に敗退し、自身の登板はなかった〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。同年夏は加倉が右翼手に回り、投手として県大会決勝に進出するが、小倉南に敗れる。翌夏の甲子園にはエースとして出場。三重高を降し3回戦に進出するが、PL学園の中村誠治投手(早大-日産自動車)と投げ合い0-1で惜敗〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。高校同期に一塁手の立花義家がいる。 同年のドラフトで近鉄バファローズに1位で指名され入団。エース級の背番号「16」が与えられた。入団4年目のに速球派として頭角を現し、プロ初勝利も挙げて先発ローテーション投手の仲間入りを果たした。には自己初の2桁となる12勝を記録。しかしその後は不調が続き、段々と登板機会も減少する。5月に中谷忠己との交換トレードで阪神に移籍。 移籍当初は先発要員として完投勝利を挙げることもあったが、以降は中継ぎに専念し、同年セントラル・リーグ最多登板を記録するなど、長く阪神の中継ぎとして活躍した。1994年オフにはフリーエージェント(FA)を行使し、翌年も残留。シーズン途中に金銭トレードで近鉄に復帰し、翌限りで現役引退。 打撃も良く、パリーグ時代は打席に立ってないが、セリーグ1年目の1988年には18打数7安打・打率.389、翌1989年には16打数6安打・打率.375・1本塁打を記録している。プロ入り13年目での初本塁打は当時もっとも遅い記録であった。 引退後はからまで近鉄二軍投手コーチ、からまで同じく一軍投手コーチを務めた。に阪神に移って一軍投手コーチとなり、同年のリーグ優勝に貢献した。翌は一軍バッテリー総合コーチ、とは一軍投手チーフコーチを担当した。に高校の先輩である真弓明信が阪神監督に就任し、その下で久保は一軍投手コーチとして投手起用の采配を揮ったが、真弓の退任に伴い限りで辞任した〔コーチの退団について 阪神タイガース公式サイト、2011年10月25日。〕。日本人投手では長身の右投げ投手、それらと似た要素の強い外国人右腕投手への指導や欠点修正などに定評があるといわれており〔メッセンジャー抹消の裏に阪神首脳陣“ガマンの限界” 東京スポーツ〕、ランディ・メッセンジャーが中継ぎとして結果を残せず、退団の可能性もあった中で先発として起用した〔阪神・メッセ、“恩人”久保2軍投手チーフCと4年ぶりに再会 サンケイスポーツ〕。6月から9月まで、韓国プロ野球・斗山ベアーズの二軍で投手インストラクターを務めた後、その指導力と育成の手腕を再び買われて阪神タイガースに復帰。に二軍チーフ投手コーチ就任。〔【阪神】久保2軍投手コーチ就任 日刊スポーツ、2012年10月16日。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久保康生」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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