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久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年(明治22年)11月7日 - 1963年(昭和38年)5月6日)は、浅草生まれの大正から昭和にかけて活躍した俳人、小説家、劇作家。生粋の江戸っ子として伝統的な江戸言葉を駆使して滅びゆく下町の人情を描いた。俳人としては岡本松浜、松根東洋城に師事、戦後に俳誌「春燈」を主宰し文人俳句の代表作家〔小島政二郎は芭蕉以来の天才というフレーズをつけた〕として知られる。俳句の別号に暮雨、傘雨〔ただし後藤杜三によると傘雨というのは洒落名であり、句集はみな「久保田万太郎」名で出しているから俳号ではないという〕。別の筆名に千野菊次郎。位階は従三位、勲等は勲一等。 == 経歴 == === 学生時代 === 1889年(明治22年)に東京府東京市浅草区浅草田原町三丁目(現在の東京都台東区雷門)に生まれる。生家は「久保勘」という袋物製造販売(足袋)を業とし、店にはいつも15、6人程の職人が働いていた。浅草馬道(現在の花川戸)の市立浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)を卒業し、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)に進む。一級下に芥川龍之介がいた。1906年(明治39年)4年への進級試験で数学の点が悪く落第したために中退し〔『東京府立中学』(岡田孝一、同成社) P77〕、慶應義塾普通部へ編入し、三年をもう一度繰り返して留年した。次いで慶應義塾大学予科へ進学したときに森鴎外や永井荷風が文学科の教授に就任した文科改革と出会ったことが運命を決めた。 はじめ、三田俳句会で出会った岡本松浜について俳句を稽古し、『三田文学』の発刊に伴い水上滝太郎を知る。松浜がまもなく東京を去ったため、松浜を介して松根東洋城に俳句を師事。1911年(明治44年)予科二年を経て文科本科に進み、小説「朝顔」、戯曲「遊戯」を『三田文学』に発表し、『東京朝日新聞』の時評で小宮豊隆が絶賛して一躍、世に文名を挙げることになった。7月、雑誌『太陽』に千野菊次郎の筆名で応募した戯曲「プロローグ」が小山内薫の選に入り、このころ島崎藤村をたずねた。 1912年(明治45年/大正元年)に土曜劇場が有楽座で『スバル』に発表した「暮れがた」を上演し戯曲が脚光を浴びた。6月に徴兵検査を受け、第一乙種で徴兵を免れる。10月には『ホトトギス』が主宰した観能会で、生田長江によって泉鏡花を紹介された。1914年(大正3年)に慶應義塾大学文学科を卒業し、浅草区駒形に移る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久保田万太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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