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久原財閥 (くはらざいばつ)は、久原房之助が設立した財閥で、阪神財閥の1つ。 ==鉱業家の誕生== 久原房之助は後に藤田財閥を開いた藤田伝三郎の実兄にしてその共同経営者であった久原庄三郎の子として生まれた。1889年(明治22年)12月、慶應義塾予科を卒業し、3、4ヶ月休息ののち、貿易商森村市左衛門の森村組神戸支店に入社する。入社1年でニューヨーク支店駐在員を命じられるが、渡航直前、井上馨がこの赴任に反対し、森村組を退社する。 当時日本経済は恐慌に見舞われ、米騒動、ストライキの続発、事業熱、株式投機ブームの退潮などが相次ぎ、藤田組が経営の難関にさしかかっていた時期で、藤田三兄弟の相続人のひとりが他企業にあってしかも渡米するなどもってのほかということだった。藤田組に入社した房之助は小坂鉱山に赴任した。1900年(明治33年)には小坂鉱山所長に就任。1905年(明治38年)3月、房之助は父庄三郎が隠居したので家督を相続、藤田組の取締役に就任。同年12月10日に藤田組を退社し、翌11日に、茨城県多賀郡日立村赤沢銅山の買山契約を締結した。資金は、井上馨の助けで、当時の三井銀行常務取締役筆頭・池田成彬や大阪鴻池銀行からの融資をとりつける。同年12月26日、久原は赤沢銅山を所在地日立村の地名をそのままとって、「日立鉱山」と改称した。そして、従来の操業方法の近代化、機械化につとめ掘削方式を一新、科学的近代技術と機械の導入で能率の向上をはかった。39年には小坂時代の経験を生かし水力を利用した発電所を起工、40年には熔鉱炉の火入れを行った。1908年(明治41年)11月、製錬場の操業が始められた。37年から41年までの産銅量は、138トン、246トン、260トン、787トン、1,872トンと順調に増え続けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久原財閥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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