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久宮祐子内親王(ひさのみや さちこないしんのう、1927年(昭和2年)9月10日 - 1928年(昭和3年)3月8日)は、日本の皇族。昭和天皇と香淳皇后の第二皇女。御称号は久宮。 == 生涯 == 1927年(昭和2年)9月10日、昭和天皇と香淳皇后の第二子、第二皇女として誕生。身長50.8cm、体重3300g〔1928年3月8日 朝日新聞「お傷わしき御一生 御誕生より御7ケ月目 桃の節句も御むなしく」〕。 「久宮祐子」の名は、吉田増蔵らによって選定された三つの候補から、父:昭和天皇が選び9月16日に命名式が行われた〔。由来は『易経』。後朱雀天皇第三皇女と同字、また同第一皇女の名は「良子」で、久宮の母:香淳皇后と同字であった。守り刀は月山貞一の作〔。 同年12月17日、香淳皇后が大正天皇の権殿へ拝礼する際、姉の照宮成子内親王とともに宮城(皇居)を訪れた〔当時、昭和天皇一家は赤坂離宮で生活していた〕のが、はじめての外出となる〔1927年12月17日 朝日新聞「きょう久宮様はじめて宮城へ」〕。 皇后自ら母乳を与え、順調に発育しており、1928年(昭和3年)3月3日には初節句を、特に諒闇あけという状況もあり盛大に祝う予定であった。天皇・皇后は30種のひな菓子を用意し、皇后の実家:久邇宮家からは内裏びな、その他に宮妃となった明治天皇皇女たち〔竹田宮妃 昌子内親王・北白川宮妃 房子内親王・朝香宮妃 允子内親王・東久邇宮妃 聡子内親王の4名〕からも贈り物が用意された〔1928年2月25日 朝日新聞「お喜び一入深き 久宮様初のお節句 両陛下にも両内親王殿下に、ひな30種を御買上」〕。 しかし2月27日に、湿疹と高熱が生じ、咽喉カタルと診断された〔1928年3月2日 朝日新聞「久宮内親王御不例 咽頭カタルと拝診さる」〕。初節句の祝いは延期され、皇后・侍医らが尽きっきりで看病した。発病が公表された3月1日時点では医師らは「ご心配申し上げるほどではない」との認識であり、3月3日に熱が下がった際も、数日中に全快するという見通しだった。 ところが、3月4日再び熱が39度台まで上昇、午後9時には重態となり敗血症の疑いが濃厚となった〔1928年3月6日 朝日新聞(夕刊)「久宮祐子内親王殿下 御重態に陥らせらる」〕。皇后は女官共々徹夜で看病にあたるようになる。なお同時期に天皇も発熱したが、これは風邪によるものだった。3月6日の地久節(皇后誕生日)の行事も中止され、深夜までに熱海滞在中の久邇宮夫妻にも帰京が要請された。 3月7日午後8時40分頃容態が悪化し、翌3月8日午前3時38分、薨去。その後、演芸放送や陸軍記念日行事などが自粛された。皇室喪儀令の規定は、同17条により7歳未満の久宮には適用されず、3月13日に簡素な葬儀が行われた後、豊島岡墓地に埋葬された。 香淳皇后は悲しみから、その後しばらく久宮と同じ重さの人形を抱いたという。 昭和天皇は昭和55年(1980年)8月那須御用邸での記者会見にて「皇居に移ってからも子供と一緒に暮らしました。そのひとつの例として、久宮が危篤の折り、私がちょうど風邪をひいて熱を出していました。私は病を押して久宮を見舞ったことが出来たということがあります。こういうことができたということは、屋根の下で一緒に暮らしたからだと私は思います」と述べている。〔『昭和天皇と私達 なごやかであたたかいお言葉の記録』元時事通信社編集委員 宮内記者会会員 稲生雅亮、三心堂出版社1999年1月12日初版 p.146より引用〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久宮祐子内親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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