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久我具房(こが ともふさ)は鎌倉時代中期の公卿。愛宕と号す。正二位権大納言。父は大納言右大将久我通忠、母は家女房。初名雅良、ついで雅緒。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 寛元元年(1243年)4月23日、叙爵〔『公卿補任』によれば、この時、雅良。仁明天皇の御諱に通ずるため改名の沙汰があった。〕。寛元3年(1245年)10月29日、侍従に任ぜられる〔この時、雅緒。〕。寛元4年(1246年)11月23日、従五位上に昇叙〔承明門院の御給。〕。建長元年(1249年)2月8日、左少将に任ぜられる。建長2年(1250年)1月5日、正五位下に昇叙。10月14日には従四位下。11月24日に父の喪に服す。建長3年(1251年)10月24日、従四位上に昇叙。建長5年(1253年)10月9日、右中将に任ぜられる〔元左少将。従四位に昇ったあと少将に還任されなかった。〕。6月に具房と改名。建長6年(1254年)1月13日、美作権介を兼ねる。建長7年(1255年)1月5日、正四位下に昇叙〔承明門院当年御給〕。正嘉3年(1259年)1月21日、相模権介を兼ねる。文永4年(1267年)2月23日、蔵人頭に補される。 文永5年(1268年)12月2日、参議に任ぜられる。右中将は元の如し。文永6年(1269年)1月5日、従三位に叙される。3月27日、備中権守を兼ねる。文永8年(1271年)1月5日、正三位に昇叙。文永11年(1274年)1月20日、讃岐権守を兼ねる。9月10日、右中将を止めて左大弁を兼ねる。12月20日には侍従を兼ねた。文永12年(1275年)1月18日、勘解由長官を兼ねる。2月1日、造東大寺長官を兼ねる。12月22日、権中納言に任ぜられる。建治2年(1276年)1月5日、従二位に昇叙。12月26日、帯剣を許される。弘安3年(1280年)1月5日、正二位に昇叙(新院当年御給)。弘安5年(1282年)12月12日、母の喪に服す。同月19日には興福寺の強訴により、安芸に配流となる。弘安6年(1283年)3月11日、帰京。同月17日には本位に復し、28日には復任した。 弘安9年(1286年)9月2日、権大納言に任ぜられる。弘安11年(1288年)7月11日、権大納言を辞退〔同日、通基は内大臣に任ぜられるが3ヶ月後には内大臣と右大将を止めさせられてしまうのである。〕。同月23日、本座を許される。正応2年(1289年)12月15日、薨去。享年52才。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久我具房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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