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久明親王(ひさあきしんのう/ひさあきらしんのう)は、鎌倉幕府8代征夷大将軍。第89代後深草天皇の第六皇子。 == 生涯 == 正応2年(1289年)9月、従兄の前将軍・惟康親王が京に送還されたことにともない、征夷大将軍に就任した。幕政の実権は得宗北条貞時が一貫して握っており、将軍は名目的な存在に過ぎなかった。ゆえに在職中は特に業績もなかったが、冷泉為相を師として和歌を学んでいた久明親王は鎌倉歌壇の中心として歌合を主催しており、執権の北条貞時も複数の和歌を久明親王家で詠んでいる。親王自身の和歌も22首が『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』『続千載和歌集』など8つの勅撰集に入集している〔日本史史料研究会監修・細川重男編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(2015年 吉川弘文館)P139-140〕。 延慶元年(1308年)8月に北条氏によって将軍職を解任され、京に送還され出家した。交代する形で8歳の子の守邦親王(前将軍惟康親王の娘との間に出来た子)が将軍となった。 鎌倉幕府の皇族将軍は先々代宗尊親王・先代惟康親王と放逐同前の形で京都へ送還されていたが、久明親王の場合京都へ送還された後も幕府との関係は平穏であったようで、嘉暦3年(1328年)に薨去した際には幕府は50日間沙汰を停止し、翌年正月には百箇日法要が鎌倉で行われている〔『鎌倉将軍・執権・連署列伝』P141-142〕。 守邦親王の他に、歌道の師である冷泉為相の娘との間に子息久良親王がいる。久良親王の息子は臣籍降下して源宗明として従一位権大納言まで昇っている。また鎌倉幕府滅亡後に天台座主となった聖恵も久明の子とする説もある〔『鎌倉将軍・執権・連署列伝』P142〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久明親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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