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久松 信俊(ひさまつ のぶとし、生年不詳 - 天正5年7月19日(1577年8月3日))は、戦国時代の武将。 尾張国・阿久比城城主の久松俊勝の庶長子。別名は定員。通称は弥九郎。生母の出自はこれを水野氏とするものがある〔「張州雑志」巻4「坂部村」の項に採録されている「菅家久松系図」。その母を「大高城主水野大膳」の娘としている。 〕。父の後妻となった伝通院(於大の方)の実子である徳川家康との血縁関係はない。妻は佐治氏で「対馬守某」の娘とされている(「寛政譜」新訂17巻315項)。異母弟に松平康元、松平康俊、松平定勝らがいる。 ==経歴・人物== 桶狭間の戦い後、父・俊勝は松平元康(後の家康)の招きを受けてその家臣となり、於大ら妻子を連れて三河国に入った。織田信長と元康が清洲同盟を結ぶと、阿久比の地は織田氏の支配下となり、家康と血縁のない信俊が阿久比城と尾張国内の久松氏の所領をもって信長に仕えることになった。 石山合戦の際には佐久間信盛の指揮下で石山本願寺を攻めていたが、信盛の讒言(久松氏はかつて一向宗を保護していた事を取り上げたと言う)によって突如信長から謀反の疑いをかけられ、憤慨して大坂四天王寺において自害を遂げてしまう。信俊の死の直後、信盛の軍勢は阿久比城を攻め落とし(前出「張州雑志」所収系図)、信俊の子供達のうち2人を殺害した。しかし胎児であった末子「久松信平」は生母と共に保護され、外祖父佐治対馬守の許で出生したという(「寛政譜」)。またその子「信綱」は松平定勝に仕え、子孫は伊予松山藩家臣となった(同前)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久松信俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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