翻訳と辞書
Words near each other
・ 久松勝慈
・ 久松勝成
・ 久松勝行
・ 久松史奈
・ 久松城
・ 久松城賞
・ 久松夕子
・ 久松定員
・ 久松定成
・ 久松定武
久松定法
・ 久松定謨
・ 久松家
・ 久松家四ヶ寺
・ 久松寺
・ 久松寺 (大和郡山市)
・ 久松小
・ 久松小学校
・ 久松山
・ 久松座


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

久松定法 : ミニ英和和英辞書
久松定法[ほう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
定法 : [じょうほう]
 【名詞】 1. established rule 2. usual method
: [ほう]
  1. (n,n-suf) Act (law: the X Act) 

久松定法 ( リダイレクト:松平定法 ) : ウィキペディア日本語版
松平定法[まつだいら さだのり]

松平 定法(まつだいら さだのり)は、伊予今治藩の第10代(最後)の藩主。定房系久松松平家10代。
== 生涯 ==
天保5年(1834年)12月29日、第8代藩主・松平定芝の三男として生まれる。天保8年(1837年)に父が死去したときは幼少のために跡を継げず、代わりに定芝の婿養子となっていた勝道が跡を継いだ。定法は天保11年(1840年)5月23日に勝道の養子となった。嘉永3年(1850年)12月16日に従五位下、壱岐守に叙任する。文久2年(1862年)11月22日、勝道の隠居にともない跡を継いだ。
藩政においては、文久3年(1863年)に軍備を洋式軍制に改め、今治海岸に砲台を創設した。幕末期の動乱の中では、佐幕派と尊王派の間で仲介、周旋などに尽力したが、慶応2年(1866年)の第二次長州征討での幕府軍敗退を契機に、将軍・徳川家茂にその中止を進言しながら、次第に薩長側に与するようになる。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に従って京都に出兵し、御所を警備した。後に甲府城の警備、江戸・奥州・会津征伐にも出兵した。同年、太政官布告により、本家の伊予松山藩松平家とともに、源姓松平氏から本来の菅原姓久松氏に復姓する。明治2年(1869年)6月の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で免官となる。その後、東京へ移った。明治5年(1872年)8月7日、隠居し、養子の定弘松平正義の長男大河内正晴の長男)に家督を譲った。明治34年(1901年)9月18日に死去した。享年68。





抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「松平定法」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.