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久邇董子 ( リダイレクト:松浦董子 ) : ウィキペディア日本語版 | 松浦董子[まつら しげこ] 松浦 董子(まつら しげこ、1907年(明治40年) - 1989年(平成元年)1月28日)は日本の旧華族。帝国陸軍中佐にして大正天皇侍従で平戸新田藩主子孫松浦靖(まつら はかる)子爵と久我侯爵次女節子(さだこ)の次女。女優久我美子の大叔母にあたる。戦後凋落しながらも自尊心を守り続け、その死はマスコミに大きく取りあげられた。 == 生涯 == 1925年(大正14年)、女子学習院卒業。1928年(昭和3年)、久邇宮邦彦王の次男で帝国陸軍中尉であった久邇邦久侯爵と見合い結婚する。久邇侯爵は香淳皇后の兄であったため、董子は香淳皇后の義姉であったことになる。渋谷宮益坂の1万坪の豪邸に住まい、使用人に囲まれた生活を送る。 1935年(昭和10年)、久邇侯爵が脳溢血で急逝する。子がなかった董子は、翌年、久邇侯爵家を離籍し両親との暮らしを再開する。離籍にあたっては、約25万円(現在価値に換算すると数億円)という南満州鉄道の株券を持参金代わりに与えられたが、敗戦で株券は紙くずと化す。1947年(昭和22年)、日本国憲法施行に伴って華族としての礼遇を停止される。戦後は箱根町の仙石原にあった進駐軍のゴルフ場の受付をしながら、父亡き後、母の世話をする。 1956年(昭和31年)、岩手県選出の代議士山本猛夫と再婚する。しかし夫婦間には愛情がなく、夫の浮気に悩まされる日々であった。1958年(昭和33年)、結核で入院した折に創価学会の熱心な信者であった付添婦から勧誘を受け、創価学会に入信する。1966年(昭和41年)、董子の側から申し出て夫と離婚すると、董子は家政婦や病院の付添婦として働き始めたが、65歳のとき体に無理が利かなくなって退職し生活保護を受ける身となる。1976年(昭和51年)、母が死去すると、実家と疎遠になり、孤独の身となった董子は、ますます信仰にのめりこむようになった。 晩年は東京都足立区竹ノ塚の家賃3万円のアパートで暮らす。「たくさんの方に親切にしていただいて幸せ」が口癖であった。昭和天皇崩御の報を聞き皇居で記帳した3週間後、虚血性心不全で死去する。葬儀の参列者は20余名であったが、その中には数名の旧華族の姿と女子学習院時代のクラスメート3人(三菱銀行(当時)元頭取の田実渉氏未亡人相子、元女官宮本治子、元男爵家松下貞子)の姿もあった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松浦董子」の詳細全文を読む
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