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『乙女の港』(おとめのみなと)は、川端康成名義の長編小説。川端の少女小説として連載発表されたが、今日では、当時川端に師事していた新人の主婦作家・中里恒子(佐藤恒子)の草稿に、川端が校閲・加筆指導・手直しをして完成させた共同執筆の合作だったことが判明している作品である〔内田静枝「解説」()〕。「花選び」「牧場と赤屋根」「開かぬ門」「銀色の校門」「高原」「秋風」「新しい家」「浮雲」「赤十字」「船出の春」の全10章から成る。 横浜のミッション系女学校に通う女学生たちの交友関係を綴った作品で、上級生と下級生が擬似的な姉妹となって交際するという、当時の女学生の間で広くおこなわれていた エス (sisters-in-law)という風習について描かれている。なお、作品の舞台は明確には書かれていないが、地名や風景描写から横浜市であると考えられている〔「用語解説」()〕。 1937年(昭和12年)、少女向け雑誌『少女の友』6月号から翌1938年(昭和13年)3月号にかけて10回連載され(挿絵:中原淳一)、同年4月1日に実業之日本社より単行本刊行された。正確な発行部数は不明だが、初版から5年目で47刷に達しており、連載から初版刊行までの期間もすぐで、当時の人気ぶりがうかがえる作品である〔〔。 == 中里恒子の草稿について == 『乙女の港』は川端康成の単独作として発表された作品だが、新版『川端康成全集 補巻2』で発表された中里恒子との往復書簡で、中里の草稿に川端が校閲・加筆指導・手直しをして完成させていたことが示唆されており〔、中里の才能を早くから認めて「執筆指導」していた川端と、中里が川端に全幅の信頼を寄せて「下書き」をしていたことがうかがわれ、共同執筆の合作だったことが今日判明している〔〔。問題となっている川端と中里の書簡のやり取りは以下のようになっている。なお、中里の草稿の一部は死後の1989年(平成元年)に見つかっている(神奈川県近代文学館所蔵)〔。 1937年(昭和12年)9月14日付、川端康成から中里恒子へ 1937年(昭和12年)9月18日付、中里恒子から川端康成へ 1937年(昭和12年)10月16日付、川端康成から中里恒子へ 1938年(昭和13年)9月17日付、中里恒子から川端康成へ こういった経緯のある『乙女の港』について、川端が筋を指示して中里が書き、川端が徹底的に手を入れている作品であるから中里の代作ではないとする内田静江のような意見に対して〔、小谷野敦は、筋立てが中里のものだと推測して、中里恒子作と表記すべきだと主張し、川端作として刊行する出版社を批判している。 下條正純は、これらの資料からは、どの程度が中里の筆によるのかは不明であるが、中里が横浜市のミッションスクール・横浜紅蘭女学校の卒業生であることから、中里自身の体験に基づく女学生文化や女学生の言語を下敷きにした描写がなされていると推測している。 この件を本格的に研究している中嶋展子は、発見された中里の草稿や、二人の書簡のやり取りを分析し、そこには、川端の新人作家を導くという師弟関係にも似た交流に支えられた作品の成立過程が見られるとし〔、『乙女の港』は中里による下書きがあって成立した作品ではあるが、川端の改稿により文章表現が改善され、作品に「広がりや彩り」が添えられて、テーマも明確となった作品であり、そういった文章の方法が、草稿のやり取りから見て取れると解説している〔。 同じく本格的にこの件を研究している大森郁之助は、この書簡の一つ前段階として川端が中里へ腹案(あらすじの展開、場面の構成など)が伝えられていたか否かは不明であると前置きした上で〔、川端の様々な作品で女性の同性愛への文学的な嗜好が垣間見えることから、『乙女の港』の同性愛モチーフが「川端の発案」だった可能性も考えられるとしている〔。その根拠として大森は、中里作が濃厚な『花日記』の方が同性愛の完成度が低く、川端が改稿した『乙女の港』や、完全な川端本人作である『美しい旅』の方が、より同性愛要素が高いことと、『乙女の港』の第6章の軽井沢の部分は川端の加筆であることが馬場重行によって示唆されていることなどから〔馬場重行「川端康成の少女小説」(『川端康成研究』十九号、1981年1月)〕、最終的には全体として川端が自作視得るものになっていたと考察している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「乙女の港」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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