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乙支文徳 : ミニ英和和英辞書
乙支文徳[いつし ぶんとく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おつ, きのと]
  1. (adj-na,n) 2nd in rank 2. second sign of the Chinese calendar
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 

乙支文徳 : ウィキペディア日本語版
乙支文徳[いつし ぶんとく]

乙支文徳(いつし ぶんとく、6世紀後半ころ - 7世紀初頭ころ)は、高句麗の将軍であり大臣。『三国史記』巻44・乙支文徳伝においては世系は不明とあるが、北朝鮮の平安道地方には「乙支文徳はソクダ山の者で、山に入り道を極め、悟りを開いた」という伝説が残っており、このことから北朝鮮の首都平壌近くの出身という推測もある〔KBS WORLD - 乙支文徳 〕。の第二次高句麗遠征(612年)(隋の高句麗遠征)において、隋軍に偽りの降伏を申し入れ撤退を開始した隋軍に追い討ちをかけ大勝利を収めた。その功績は高く評価されてはいるが、戦後の文徳の動向は『三国史記』には記事が残っておらず、死の状況についても詳細は解らない。
==薩水大捷==
隋の煬帝による第二次高句麗遠征(612年)は、113万3,800人の兵を以て200万と号する大軍と、それを支える輜重隊による前代未聞の規模で行われた。左右それぞれ12軍に別れて兵を進め、宇文述于仲文らの9軍〔このときの9軍は、『三国史記』高句麗本紀には宇文述・于仲文のほかに、荊元恒、薛世雄、辛世雄、張瑾、趙孝才、崔弘昇、衛文昇によるものとする。〕が鴨緑江の西辺に集い、高句麗と対峙していた。このときに乙支文徳は嬰陽王の命を受けて、隋軍の内実を探るために偽りの投降を行なった。隋軍の兵士たちが餓えていることを見て取った文徳は隋軍を抜け出し、高句麗軍に戻ってからは追ってくる隋軍を疲弊させる作戦を採った。宇文述らが追ってきたのに対し、一日に7回戦ってその度に負けた振りをして隋軍を引き寄せ、隋軍は薩水(清川江)を越えて平壌から30里ほどの山間に布陣することとなった。これを見て文徳は敵将于仲文に詩を書いて送り(次節#与隋将于仲文詩参照)、さらに「軍を引き上げられるのであれば、嬰陽王を隋の皇帝の仮御所へお連れしましょう」と言って再び偽りの投降をした。食料が乏しく兵士も疲労していたことと、平壌城の守りが堅くて陥落させられそうにないと悟った宇文述は停戦して隋に帰還しようとし、方陣を組んで軍を退却させた。そこへ文徳らは襲い掛かり、薩水を渡って戻ろうとしたところを徹底的に攻撃して、右屯衛将軍の辛世雄を戦死させるとともに隋軍に壊滅的な打撃を与えた。はじめに遼河を越えて高句麗に臨んだ隋の9軍30万5千人のうち、再び遼東城に戻ることができたのはわずかに2,700人であったという。この記念的な大勝利を、韓国・朝鮮では「薩水大捷」という。
乙支文徳の偽投降、脱出、七戦七敗の戦略については文徳の知略と、隋軍の失策があった。まず、隋の兵士が餓えていたことについては、遠路の出征に当たって支給された武器・衣料・食料があまりに重かったために食料を捨ててきた兵士が多く、出征後すぐに食糧難となっていた。また、于仲文は嬰陽王または文徳を捕虜として拘束するように煬帝の密命を受けていたが、そのことを知らされていない慰撫使の劉士龍が制止したため、文徳は解放されてしまった。さらに、文徳を逃したのちに宇文述は食料不足のために退却を検討していたが、煬帝の密命を果たせなかった于仲文が功なくして帰国することを嫌い、強引に文徳への追撃を主張したために余計な戦闘をしていたのである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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